不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

挨拶のこと

挨拶(あいさつ)という日常単語があります。これをしない人は恐らく世界中のどこにもいないと思いますが、万が一、それをしない、もしくはする必要のない人がいたとしたら、その人の精神活動はかなり貧困ではないかと想像します。

実はこの「挨拶」元は禅宗の専門用語です。臨済/黄檗宗のHPには『挨は「迫る」、拶は「切りこむ」こと。師匠と弟子との問答のやりとりのこと。』とあります。ちなみに英語のgreetingの原義は『大声で叫ぶ、訪問する』だそうです。

礼儀作法とか日常生活とかいう繁雑な諸作法以前に挨拶という行為は存在すると思いますが、ともあれ日本語にしろ英語にしろ相手在ってこそ成り立つ行為です。そして人間は例えマッドマックスであれケンシロウであれランボーであっても、言葉を使う必要がある、という程度の人間社会であってもそこににいる以上、やはり挨拶は欠かすべからざる行為の源ではないかと思っています。

私もいつの頃からか社内では率先して挨拶をするようになりました。大抵相手に後れを取らず、先に挨拶をする方です。いつからそうするようになったのか記憶にありませんが、多分ここ10年以内だと思います。何かの本に書いてあったような記憶があるのですが、相手の存在を認める最初の行為が挨拶だとか何とか。能力や社会的地位、資産を認める以前にその人の存在そのものを認める行為が「挨拶」なのだとか。確かそんな文句が心に響いてから挨拶を率先するようになったのだと思います。

これは門下で毎回世界各国からやってくる同門を見極めるのにも非常に有効です。

私は控えめに挨拶をしますが、相手の表情、挨拶の仕方、間、そもそも挨拶をするかどうか、それで相手のことがかなり分かります。

海外から来る門下の中にはこれでなかなか社会的に高い地位の方や資産家の方もいたりします。また、日本にいてテレビやラジオで英会話を教えていたりする人もいたりします。しかしそれは話してから分かること。基本的にファーストコンタクトで見極めたことはあまり外れません。

故に私は相手がどれほど社会的に地位が高かろうが資産があろうが学歴があろうが能力があろうが、こういう点でつまずく人にはあまり信を置かないようにしています。私が知りうる限りですが、武芸でも禅でも茶道でも仕事でも、できる人だなと思う人はやはり挨拶も素晴らしいですし、第三者が見ていても感心するコンタクトの仕方です。最近では裏千家先代家元の千玄室先生でしたが、あのくらいの大人物を見習っていきたいところです。

もちろん、人によっては能力だけ見ている人、資産だけ見ている人、社会的地位を見ている人、学歴だけ見ている人さまざまですが、能力は積み重ね、資産や地位は増減するもの、学歴は過去の栄光、それだけに今その場、その人の所作だけがリアルで本当のものではないかと思う次第です。

平成二十四年文月九日

不動庵 碧洲齋