不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

笠森観音

昨日は所要があって午後から千葉県房総半島に行ってきました。 天気は曇天、まもなく雨が降るかと・・・。 昼間で仕事をして、午後からの出立でしたが高速が非常に空いていたために難なく千葉市を通り過ぎた頃・・・あ、時間があると思い、少し寄り道をしました。 行った先は長南町にある天台宗大悲山笠森寺。笠森観音で知られているお寺です。 坂東三十三箇所の第三十一番札所にもなっています。 開基は伝教大師最澄です。 個人的に房総半島は都心から近い割に非常に自然が多く、交通の便もあまり良くないと言うこともあって人が少なく、好きな場所です。最近は高速道路も整備されつつあるのでにわかに人気が出てきています。 笠森寺に着いた頃には雨は降ったり止んだりの繰り返し。 驚いたことに、それでも3台ほど観光バスが止まっていて、それなりに人がいたこと。 もちろん高齢者でしたけどね。幾人かたまたま有休か何かでやって来ていた若い人たちもちらほらいました。 笠森観音はちょっと名前は聞いていて、大体どんなところかは知ってはいましたが、入り口から驚き。巨木が林立していました。しかも少し登ったところにあるらしいのですが、完全に森の中。 森の中の階段を上っていきましたが、途中コケがびっしりと生えた切り通しを通り、山門に到着。すぐ傍には根本の中央にぽっかりと穴が空いた木があり(枯れてません)子授け観音とかになっていました。まあ、男なので徹のは憚られました(笑)。
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山門の表には風神と雷神が安置されていました。仁王像ではないんですね。 裏側にはよく分からない座像2体が左側に、閻魔大王らしき座像が右側にありましたが、どれも古い感じです。 山門を通ると切り開かれていて本堂が見えましたが、思わず「おおっ!」と驚きました。本当に小高い岩のてっぺんに本堂がちょんと載っているのです。
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清水寺の365度バージョン?ちょっとしたお城の天守閣のようです。国内ではこのような建築物は他に例がなく、国定重要文化財に指定されていますが、確かに奇抜な建物ではあります。 山門をくぐって左側に特別展示があり、天台宗ハワイ別院の荒了寛住職の個展がありました。色紙に絵と文句が書いてあったのですが、どれも心に打たれるものでした。荒住職は米国で仏教や日本文化の交流などにご尽力されているようです。親切にも色紙の文句の多くには英訳が付けられており、外国人にも分かりやすいようになっていました。 幾つか紹介します。 下手だからってあきらめるな。それだけたのしみが多いということだ。 鬼の目で見ればこの世は鬼ばかり。仏の心で見ればこの世はみんな仏さま。 損得ではなく善悪で判断しなさい。 あなたが弱いと思っている処こそ、あなたの強い処なのです。 がたがたは我他我他。互いに心が合わないとがたがたになる。 個展を鑑賞し終わると、本堂へ。急な、しかも古い木造の階段を上ります。登る途中に、この本堂がどのように建立されているのかが分かります。61本の柱で支えられた四方懸造と呼ばれる構造なのですが、本当に尖った岩山の上に床を張り、空間は全て木の柱で支えているんです。こんなのが400年以上前に作られているなど驚異的でもあります。登ったところで入場料を払うのですが、わずか100円。ん~もう少し取ってもいいと思います。 景色は抜群!曇っていたにもかかわらず本当に素晴らしい眺めでした。今度晴れたときにまた行ってみたいところです。
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本堂には観音様やお不動様が安置されていました。団体で来られた方の中には熱心に祈っていらっしゃった方もいました。四方は回廊になっていて自由に歩けますが、高所恐怖症の方には向きません。また、手すりも低いので、危険と言えば危険です。それでもこの素晴らしい景色は格別です。境内も一望に眺めることができます。 ゆっくりと一周してから降りましたが、輪袈裟を付けた一行が登ってきました。
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降りたところでまた周囲を回ってみましたが、チベット仏教の建築物みたいです。何度観ても素晴らしい造りでした。 その後は境内にある子育て観音に参拝。六角堂に納められています。今まで私が大過なく息子を育てることができたのはひとえに多くの人々の縁と仏様によるものです。熱心に祈らせて頂きました。 六角堂の裏手はもう少し高くなっていて、鐘楼がありました。自由に突いてよいらしいので、遠慮なく突きました。個人的には不動寺の方が重厚な感じがしますね。それに枠があったので打ちにくかった。あと、すぐ近くにトイレがあったので、今ひとつ臭いが(笑)。
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時間が迫っていたので降り始めると、参道の山道を登ってくるおばあさんがいました。足腰が悪いようで、手すりにつかまり一生懸命に一歩ずつ登っていました。しばらく表情を拝見しましたが、本当に一歩一歩登るごとに嬉しそうでした。 お寺は本来、こういう方々のためにあるんでしょうね。
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なんでわざわざこんな辺鄙で不便なところに、あり得ない造りで寺を建てたのでしょうか。 他に例がないので実はよく分かっていないようです。 私が勝手に思い付いた想像です。 本来人は仏と呼ばれる盤石の巌の上にいて、平和で安泰でいるはずなのです。 だから争いごとなどあるわけがないのです。 どうしてそんなことになってしまうのかというと、人がその盤石を信じていないからです。 崩れてしまわないだろうかと、我勝手に妄想に入り浸り、ありもしないことで互いにいがみ合っているだけです。 もちろん、盤石であっても自分だけでは載っていることができません。 多くの人々の支えもあってこその盤石の安泰です。 もしかしたら伝教大師はそういうことを体現させたかったのかもしれません。 私はそのように感じた次第です。 時間にして30分ぐらいでしたが、次回はもう少し時間をかけて行ってみたいと思います。 平成二十四年水無月十三日 不動庵 碧洲齋