不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

残忍さ・冷酷さについて

劇画に出てくるような感じの残忍さ・冷酷さを持ち合わせた人は今の日本では滅多にお目にかかれないとは思いますが、人間なら誰しもそういう類の本能は潜在的に持ち合わせています。

一番困るのはそういうのを顕在化させ、しかもそれを楽しんでいる、いわゆる「サディスト」。私の周囲にも実は何人かいます。

私の経験によると残忍さ・冷酷さというのは確実に伝染します。

嫌悪する人もいますが、嫌悪するうちに距離が置けない場合は残忍さ・冷酷さで相対してしまいます。

そして相対しているうちに残忍さ・冷酷さが気持ちよくなってきたりすると最悪です。

武芸者も基本、戦闘状態では残忍さ・冷酷さは在って然りですが、それ故に、それだからこそ非戦闘時ではそういう感情や本能には何重にも鍵を掛けておきたいところです。

私の場合ですが、残忍・冷酷な人には「無」で接しています。自分は違うんだと、自我を見せる、自己を主張する、このような衝突を残忍に強調、演出したがるのがそういう人たちの特徴です。だから無視するでもなく(無視は相手がいるという前提です)、取り込まれるでもなく、自分が無になることによって、そういう類の輩に対して気配を消すのです。

そういう意味に於いて、私の環境は禅の修行としてはなかなか素晴らしいもので、しかもそれをしているうちに武芸に関する応用や気付きが多くあります。心が安まる場合がない、と思うのはまだまだ。ストレスに感じるのも自我が抑圧されているからだと思いました。スッと無になるというのは多分、日頃身分証明書やID、パスワードなどで自分自身をいちいち証明せねばならない現代社会に於いて、割に有効だと思います。例えば江戸時代なら自分自身にあり潰れることが出来たのでしょうが、現代社会ではありとあらゆるところで自分を証明し、定義し、あらゆるマルチメディアで記録し見返し、自分自身であり潰すよりも自分自身を観察しようとする、あまり精神衛生上よろしくないことを多々しています。故に禅で無になる努力は結構精神的には良いのではないかと思った次第です。

押しも引きもできないと相手は苛立ちますが、その苛立たしさが愚かしいことだと気付かせてやることもまた慈悲ではないかと勝手に思っています。ガリガリ、ゴリゴリにエゴを押し通して、相手が粉砕されたり弱る様を観て喜ぶような人間は最低ですが、もっとイヤになるのは、そういう人に限って「相手のため」「相手を想って」という大義名分の元で行うこと。こういう台詞も結構共通しています。

何のことはない。自分が気に入らないだけです。そもそも対峙させられている人からすれば、本当に心配されて言われているのかどうかぐらい分かります。しかし残忍・冷酷な人にはそんな簡単なことすら分からなくなります。本当に恐ろしいと思います。

今の世相を見ていると、やはり人間同士の繋がりに間合いが取れていなかったり、近すぎたり、昔に比べるとうまく立ち回っていないからそういう感情が出てくるのかなとも思ったりしますが、ダークサイドの人に対してはダークの力を使わないことがよりよき人間性を発現できるものだと思います。

平成二十四年水無月八日

不動庵 碧洲齋