不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

飛行機の安全装置の如く

旅客機が世界中で飛ぶには、先ずは大変厳しい米国連邦航空法をクリアしなければならないそうです。詳細は失念しましたが、例えば定めるところによると安全装置のバックアップが三重四重にせよ、構造的に何倍もの負荷を掛けても耐えうる構造にせよ、などとどんな状況下でも飛行機が落ちないぐらいキビシイものです。まあ、それでも飛行機は落ちてしまいますが、その事故の発生率や自動車の1/20以下。日常の自動車事故の方がよほど怖いというものです。とはいえ、飛行機事故が怖く感じられるのは一旦事故が起こると、大抵はかなり悲惨な事故になるからです。それはそうでしょう。車と違って事故ったら一度止まって処理するなんて事が出来ないのですから。

私はかれこれ四半世紀以上、武芸と付き合ってきています。これだけ長いと腐れ縁のようなものですが、思ったように伸びてないのはやはり努力が足りないからでしょう。故に細く長くやっているだけです。始めた頃はともかく、武芸を志していてきつく我が身を戒めることがあります。それは暴力行為に何重にも安全装置を掛けること。武芸は基本的に殺人技術です。崇高な哲学や理論もありますが、根本は効率的に人を殺す技術他なりません。そこで武芸者に必要とされるのが何重にもかけられた安全装置です。格闘技と違って武技は生涯蔵にしまって使わないことが一番だと、本気で信じている人が一番安全ではありますが、同時に使ったときに最も流麗である人もまた、一番だというのもまた、武芸を通じての矛盾でもあります。それが使われるときは非常の時だけですが、あるかないか分からないその時のために切磋琢磨し、日常生活の考え方、在り方にまずまずうまく応用できる人が良い武芸者ではないでしょうか。

家の片隅に忘れられたように置いてある消火器とか。

車のどこかに眠っている発煙筒とか。

使わないことが平和ではあるが、使わねばならないときは機能を十全に生かせること、これが本来あるべき姿だと思います。

どうしても自分の立ち位置を客観的に知りたければやはり格闘技がお勧めです。

これは嫌味や皮肉で言っているのではなく、在り方が全く違うと言うことです。

もちろん、どちらが強いという問いも意味を成しません。

そういう意味でもスポーツ化された武道、格闘技の方がもしかしたらメリハリがあるのかも知れません。

ただこの世界的にもかなり平和な日本に於いて、古からの武術が継承されている事実は、日本人が平和にあっても非常を忘れない心がどこかにあるのかなと思います。

たとえばイスラエルなどから出稽古に来ている同門と稽古をしたときなど、動きのどこかに「すさんでいるな」とか「渇いているな」と思わなくもありません。実戦的、使えること直截的であることだけにフォーカスされたその武技は、同じ門下と言えやはり違うものだと感じることが良くあります。

そんなことから私は日本人が考え、日本人が伝えたい武道というものはどんなものなのか、フェイスブックやメールなどで綴ったり、稽古の前後で語り合ったりしていますが、楽なものではありませんね。しかし互いに楽しいことではあるので、少しでも日本の武道の香りを感じ取ってもらえればと、日々あくせくしている次第です。

平成二十四年水無月七日

不動庵 碧洲齋