ちなみに玄室先生は海軍特攻隊の隊員でした。
私は生まれて初めて特攻隊員と会ったことになります。
つまり特攻隊員のナマの話を聞くのも初めてです。
玄室先生が特攻隊員達に出撃前に持って来た茶道具と配給の羊羹でささやかな茶会をしたことは有名な話しですが、殴られたような衝撃を受けたエピソードを聞きました。
当然ながら、彼は茶道で有名な千家を知っていました。
彼は先生からお茶をもらうと、なにげに「戦争が終わったら、お前のところの立派な茶室でお茶を飲みたいなぁ・・」と言ったそうです。
特攻隊です。死ぬかも知れない、ではなく、確実に死ぬんです。確実に死ぬのが分かっていて、そういうことを言うんです。これは当時彼らがどういう風な心持ち、心意気だったのか、生々しく私たちに伝わります。
結局、部隊が九州の基地に移動してから、先生は仏のご加護があったおかげで、分隊ではほとんど唯一、出撃を免れたそうです。なお、先生の戦友には水戸黄門も演じた俳優の故西村晃氏がいます。先生は分隊で一番背が高く、西村晃は一番小さかったためにでこぼこコンビで非常に目立ったそうです。
大戦当時の事を描いたテレビドラマでは、軍人達は皆、「大日本帝国万歳」とか「天皇陛下万歳」と声を大にして叫んでいますが、現実には自分の母親を想い、家族を偲び、その母親や家族の名を叫んだことが多いとのことでした。
実際にその場にいないので分かりませんが、もし私が同じ立場だったとしても、同じかも知れません。母国は愛しいし天皇陛下は最も敬愛すべき日本人であることは間違い在りませんが、やはり最後は家族を想うことでしょう。
アラブの諺にこんなのがあります。
-誰を最も大切にすべきですか?
-母を大切にしなさい。
-その次は?
-母です。
-更にその次は?
-やはり母を。
-最後は?
-父を大切にしなさい。
男尊女卑が著しいイスラムに於いて、最後の最後は父を立てながらも、繰り返し母を大切にせよというこの教えに敬服せざるを得ません。男尊女卑が激しいイスラムですらこのようなものなのです、いわんやその他の民族では母が如何に大切か言うまでもありません。
先生はおっしゃっていました。戦争に行く人たちは天皇陛下とか国家とかは関係がないのです。自分たちが大切に思っている人、大切にしたい土地を1秒でも長く敵の侵攻から守るために命を擲っているのだと。みんな、大切なものを守りたいだけなのだと。私もそう思います。
死ぬつもりで生き延びてしまった特攻隊員、生き延びるつもりで死んでしまった、幾百万の将兵たち、そういう人々の祈りと願いの元に今の日本があります。その中に私の祖父もいます。私は日頃からしつこいほどの息子にその話しをしています。武力をちらつかせるのが好きな近隣諸国が攻めてきても日本は不動ですが、もし日本が滅びる時があるとすれば、それは今に至るまで、日清日露、そして先の大戦で命を賭けて戦った人々の貴い犠牲を忘れた時だと思っています。そして今、忘れかけている人が大勢いる一方で、思い出そうとしている人もたくさんいます。
先生が戦後、生き延びて茶道を世界に紹介し普及にご尽力されていったのは、死んでいった仲間達から毎日励まされ、死なずに生かされた証を見せるためだとおっしゃっていましたが、本当に血を吐くような言葉でした。戦争で死ななかった理由、そんなのは偶然とか幸運の類です。でも先生の仲間達は現実にほとんど特攻で戦死され、先生はごくごく僅かな特攻隊の生き残りです。ちなみに戦友の西村さんも戦闘機の故障で引き返し、九死に一生を得ています。二人とも戦後、何で生き延びたのだろうと必死に考えたはずです。
先生は茶道を通じて日本人のものの考え方を広め、世界平和に貢献してきました。現実に今、茶道は本当にそのように世界に作用しています。
先生が生き延びてしまった理由、生きせてもらった理由を、血がにじむような努力で追求し、死んでいった戦友達の命を以て茶道を通じて世界平和の為に貢献できた結果だと思います。
こう考えた時、ひとりの人間の持てる能力、可能性、一国の文化の力の威力に敬服せずにはいられません。また同じ日本人であるにもかかわらず、そういう可能性をあまり信じてこなかった自分が恥ずかしくもあります。
先生は家元を息子に譲り、自ら世界中を奔走し平和の使者としてご尽力されています。
現実に先生は1年の半分を海外で活躍されているそうです。
そういう意味では畳の上で命を終える方ではないような気がします。
私も見習いたいところです。
茶道は禅の哲学にも相通ずるものがありますが、先生は非常にシンプルに平和について語っていました。
「今日を考えるには明日、明日を考えるには今日」
これも非常に感銘を受けた言葉でした。
今日一日、この今一瞬を懸命に生きる、これは明日のためであり、言い換えれば明日があるという証はこの瞬間、懸命になっている今がそれだということでした。これは禅でもよく言われることです。
蛇足ですが、それ故に今できることは後回しにしてはならない、ということですが、本当にそう思います。
身を慎み控え、譲り合うことは他人を思いやることだそうです。他人を思いやることを忘れていくら慎んでも意味がありません。これは私の耳にも痛い言葉でした。大いに反省します。
そういう気持ちを、どの国の人も持てば、戦争など起こるはずがない。
先生が力説されていました。
茶道の極意はそのような他人への思いやりの集大成ではないかと思います。
講演を終えられると、用事があるのか、すぐに会場を後にしましたが、その時でも会場内をくまなく周り、参加者に挨拶をしてから去っていきました。本当にそういうところに手間を惜しまない姿勢に感激しました。
戦前戦後まもなくは茶道はごく普通に家庭や学校で教えていたそうです。
ところが現在では茶道はやや高級な趣味の世界になってしまっています。
個人的な見解ではやはり茶道はやや高級で敷居の高い趣味のようにも思いますが、茶道の精神はさにあらず。
お茶の心の本質部分は誰にでも学ぶことができ、実践できるものだと言うことです。
私はよく、海外の同門を家に招いては妻に茶を点ててもらいますが、そういう機会を大切にしています。
そういうことを快く引き受けている妻にも感謝しています。
私は茶道はたしなみませんが、これを機に今少し茶道の心を学んでみたいと思います。
千玄室先生の講演会を聞く機会を与えてくれた妻の先生、妻、それらに関わった全ての人に感謝したいと思います。まさに人生で希有の機会でした。
平成二十四年水無月十九日
不動庵 碧洲齋