先日、唐突に「ある人」から尋ねられた問いです。
問われた時には正直答えたくなかったのですが、結構しつこく尋ねられたので、適当に答えました。
師や友人にも禅僧がいます。
修行の定義も様々だと思います。
禅僧になる動機も異なれば、ずっと僧堂にて修行を続ける雲水もいれば、僧堂を出てから、家業として行っていることが本当の意味で修行になっている雲水、僧堂を出てから世界中を尋ね歩く雲水などなど、色々なスタイルがあると思うので、本来、あまり「禅僧はなぜ修行をする?」という問いそのものがあまり有効な設問だとも思いません。
そもそも私は雲水ではないので、核心的なことは分かろうはずもありません。これは限りなく間違いない答えだとは思うのですが(笑)。
そういうことをやんわりと言ったのですが、どうやら尋ね人は自分の師(伝統芸能の先生)からの問いに自ら答えた「楽をするためと悟りを開くため」が、非常に褒められたために、私の見解も聞きたかったようです。楽になるのはあくまで結果であって、その為ではないと思いますし、悟りのためにやるなら、禅の修行はやらない方が精神衛生上、よろしいかとも思います。
自分の答えと他人の答え、正しいか間違っているか、(気に入るか気に入らないか、もありますかね)、知っているのか知っていないのか、そういうガリガリの自他を一層鮮烈に峻別する相対的な回答、線引きをする回答、色づけをする回答を待ち構えている人にはとてもではありませんが、どんな風に答えても「ああ、なるほど」などという感想を引き出せるわけがありません。
好きだから続けるのだろうと適当に答えました。まあ、これは間違いではありませんからね。
結局、そんなことも知らないのか、見損なったという捨て台詞と、あからさまに嘲笑とともに皮肉られましたが、やはり最初から分かるつもりのない人に禅について言葉で語ろうとしない方が身のためかと思った次第。怒るよりも正直苦笑せざるを得ませんでした。私自身の精進の浅さもさることながら、特に禅をしているわけでもない人に説教される様は正直におかしかったです。
弁舌爽やかに、理論整然と語るような雲水は逆に信じられません。これは私の好みかも知れませんが。
分かるつもりのない人にさえ、黙然と姿勢を以て理解させられるだけの力を持ちたいと思いつつ、修行を続けたいと思います。
平成二十四年水無月十八日
不動庵 碧洲齋