不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

二度、海を渡った仏様

インターネットが普及してからもう15.6年になるでしょうか。

インターネットは時間と空間の概念を根底から覆してしまうほどの発明だと思います。

実際、私は世界中の人と交流を持っていますが、これはもうインターネットなしではちょっと考えられません。

これあるからこそ日本文化の発信や後進たちへのアドバイス、友人らとの交流を容易にさせています。

その中でひとり、異色のネット友達がいます。

アメリカ東部海岸にかれこれ半世紀近く住んでいらっしゃるHN喜の寿の友さんです。

私の父より少し年齢が上ということで、ネット友達の中ではほぼ唯一、戦前生まれの方です。

2010年頃から私のブログを読んで頂いていたようなのですが、昨年の私の誕生日に関するブログで初めてコメントを頂き、以後、ブログやフェイスブック、メールで親しくさせて頂いております。

実際にはお会いしたことはありませんが、文字の端々から教養の豊かさ、人間性の深さがうかがい知れるような方です。

私の浅学の多弁を文字にしたようなブログにも過分な評価を頂いたりして、いつも恐縮しているのですが、今回は非常に貴重なものを頂いてしまいました。

簡単に言うと、筆が滑ってチョロッと昇段した旨をフェイスブックに書いたことに端を発します。まあ何と言うか、たまたまキリのいい数字の段位を過分にも頂いたので、自戒を兼ねて書き綴ったところ、喜の寿の友さんより、アメリカの友人から譲ってもらった仏像を記念に贈呈したい、というオファーが来ました。ものがモノなので驚きましたが、その仏像の由来を聞いて更に驚きました。

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仏像は元々、彦根藩石ヶ崎町(現在の彦根市元町周辺)に住む、甚兵衛さんご一家が京都嵯峨に引っ越す際に彦根藩主井伊家の菩提寺宗安寺に当時の住民票ともいうべき寺請証文/宗旨手形を書いてもらい、その折に製作されたもののようです。時に享保12年、西暦1727年正月27日のことでした。一緒に頂いた文書は便せんに鉛筆書きなので、多分原文の写しと思われます。なかなか興味深いので書き下し文を掲載します。翻訳に当っては私の禅の師にお願いしました。

差し上げ申す 手形の事

一つ 彦根石ヶ崎町 甚兵衛 並びに弟 門之丞 権吉 甚七

妹とめ 共に 当寺 旦那にして 代々 浄土宗旨にて御座候

自然 脇より 切死丹宗門の由 申す者 之れ有るに於いては

拙僧 罷り出で 急度 申し分くべく候 万一 切死丹宗門に

相極まり候わば 拙僧も 同罪に仰せ付けらるべく候 

後日の為 手形を以て 件の如し

享保十二年 未○ 正月二十七日

                   宗安寺

彦根奉行所

要するに甚兵衛ご一家は宗安寺の檀家で浄土宗門徒で決して切支丹ではありません。もし切支丹だったら拙僧も同罪に付してください、というものです。

これを持って引っ越し先に行き、最寄りの浄土宗のお寺に行き、そこの檀家に編入されるわけです。甚兵衛さんの場合は嵯峨清涼寺でした。甚兵衛さんの子孫は今でも嵯峨に住んでいるのでしょうか。

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それから210年が過ぎた1937年頃、その清涼寺近隣に在住していたアメリカ人の家族がいました。父君は宣教師で同志社大学で教鞭を執っておられ、ご息女は18歳になるまで京都で生まれ育ちました。多分、家族が帰国の途につく頃だったのだと思います。多分親交があった嵯峨清涼寺より、この仏像を記念に贈呈されたようです。同志社大学といえば、新島襄が創った大学として知られています。

仏像は大東亜戦争を挟んで1984年頃まで当家が所有していましたが、その後、長く親交があった寿の友さんに譲られました。

そして先日、私の昇段の記念にとお申し出があり、ありがたくお預かりする事にしました。寿の友さん曰く、自分にもしもの事があった場合、アメリカ生まれでアメリカ育ちの自分の子供たちよりも、やはり日本文化を継承してくれる人にと言うことで私を継承者とされたようです。

仏像は本当に小さなもので今で言う小さな筆箱程度。内側に金箔が貼られた厨子の背後が割れていて、補修した跡があります。また、本尊は元々色々な装飾がされていたようですが、細かい部分は欠損しているようです。ただし金具などは非常に美しくできており、当時の技術力の高さがうかがい知れます。また、台座や残った部分からも彫刻の精緻さがよく分かります。サイズからしていわゆる携帯用のものだったのでしょう。手形の写しから察するに、宗安寺の当時のご住職がご一家が引っ越すに当って、記念に持ち運びしやすいサイズで作ってくれたのかも知れません。宗安寺は畏れ多くも彦根藩菩提寺です。でもこんなご一家のためにも仏像を贈るほどに気が利いたお寺だったのかも知れません。もっとも当時は一家が引っ越すなど、滅多にないことですから色々気を配れたのかも知れません。

この名も無き一彦根藩領民が所有していた、小さな仏像は2度も海を渡り、米国そしてまた日本へと往来しました。甚兵衛さんには想像も付かなかったことでしょう。

持ち帰った同志社教授の米国人家族はどの程度、清涼寺と関わりがあったのかは分かりませんが、ご息女は18歳まで京都にいて、喜の寿の友さんによると、亡くなるまで非常に流ちょうな京都弁を話されていたようです。そして1937年当時の清涼寺のご住職がわざわざ、帰国に際して荷物にならない小さな仏像を選んで持たせた辺り、私は深い繋がりがあったように思えてなりません。

この当時のお寺の僧侶というのはこういうセンスを持ち合わせていたのでしょうか。

私はこの仏像を見たとき、最初の持ち主の気持ちがよく分かりました。

あの大きな戦争があったとき、きっと持ち主達は心底、戦争が早く終わり、多くの日本人が犠牲にならず、日本の美しい町が残っているようにと祈ったに違いありません。この持ち主は米国人だから、相手は日本人だからというような狭量な人でなかったと思います。そうでなければこの仏像は今に至るまで残っていません。また、私が尊敬して止まない喜の寿の友さんの20年来の友人だったことからして、人間的に非常に素晴らしい方だったと思います。また、前の持ち主達が住んでいる東海岸ボストン周辺では南北戦争が起こったり、ジョン万次郎が育ったりと、人種を越えた、何か人間としてあるべき希少なものを追求する風土を持ち合わせています。私も以前ボストンに行ったことがありましたが、ここの市民達は明らかに他の米国の町の住民とは違うものがあります。次にまた米国に行く機会があるとすればそれは間違いなくボストンです。

だからこれを受け継いだ者の使命はやはり国際社会に於いて平和のために何をかせねばならないと思いました。奇遇にもそれは、私の武芸の使命にも似ています。最初の米国人の所有者、喜の寿の友さん、そして私と共通していることは日本と海外を結びつける志です。まあ、私の場合はスケールも力量もかなり落ちますが、とりあえずそういう志でいます。そういえば最初の米国人教授が勤めていたのは同志社大学。学校名は「志を同じくする者が集まって創る結社」から来ています。

私はこの仏像を持つ者として意義を想い、行いに恥じないように努め、次の世代まで預かって参りたいと思います。

平成二十四年水無月六日

不動庵 碧洲齋