不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

すがすがし朝・・・でありたい

元々、朝というか漢字は草の間から太陽が昇ってくる様子を描写したものなのだそうです。

何ともすがすがしい風景ではありませんか。

ということで、毎朝このような感じで朝を迎えられるとよいのですが、人によってはすがすがしい朝っぱらから、非難中傷、愚痴皮肉を朝の深呼吸の如くしないと生きていけない方も散見されます(ということにしておきます・笑)。

言われている方は、「こんなすがすがしい朝っぱらから、バカだなぁ」という想いと共にサラリと流してしまえますが、言った方は知らず知らずに口の中に大きな斧を生やし、やがて自らを傷つける羽目になります。

自分という存在を色々な方法で確かめる人がいます。

芸術作品に托すとか。

仕事の成果に托すとか。

子供の教育に托すとか。

色々あると思いますが、その中で一番頂けないのが、対立や衝突を以て自我を認識すること。ぶつかっている状態を自分だと信じ切っている人はどうにも手が付けられません。これは個人でも何かしらの集団でも然りです。

そもそも「自分で自分を認識しよう」なんて行為自体が間違っていると思っていますが、ぶつかり合ったり迷惑の炎を焚きつけて暖まろうなどと言うご迷惑な方々とは一線距離を置きたいものです。自分を誤った方法で他人に迷惑を掛けながら認識するヒマがあったら、自分自身を一生懸命にあり潰したいところです。

禅でも本来の自分、とか言いますが、何かの現象に因らない自分を見つける作業を重要視します。結局それは自我など妄想に過ぎないと言うことなのですが、何もないのが自分、自分というのは何もないというところに至る過程が重要だとされています。

ケチを付けられてカチンとくるのは衝突という現象があり、その「ただぶつかった」だけのことが自分だと誤認してしまうとか。要らぬ事を言って悦に浸るのが自分だと誤認してしまうとか。本然の自分はもちろん、そんなものではありませんが、秤に掛けたら微塵も動かぬ罵詈雑言にいちいちカリカリしていては本然の自分どころではありません。

言葉には重さはありませんが、良い言葉は基本対立とか衝突の反対にあるわけですから、これは感謝して頂くべきでしょう。

仏心仏性を感じるにはまだまだ、長い道のりのようです。

平成二十四年卯月十七日

不動庵 碧洲齋