昨日、ニュースで田中好子さんのことを紹介していました。
田中さんが亡くなってからまもなく1年になります。
最後の肉声を再度放送されていましたが、あの気迫は何度聞いても圧倒されます。抗がん剤のために意識がもうろうとなっているはずなのに人を思うあの気迫には真の愛を感じずにはいられません。本当に惜しい人を亡くしたと思います。
死がそこまで差し迫ってきているのに、天国に行っても被災者を思う心は、見事と言う他ありません。
私も同じような状況になった時はこのように死にたいものです。
私も母をがんで亡くしましたが、死ぬまで気力を持ち続ける事の難しさは、武芸者として学ぶべきものがありました。母も死ぬまで淡々と日記を付け(今でも読めません)、英語の学習に励んでいました(実は同じガンで他界した祖母もそれをしていました)。正直に言って、徐々に死に往く状況にあって気力を持ち続けることは、今の自分にはできないと断言できるほどに難しそうです。
慈悲深い人というのは同じ雰囲気なのでしょうか、田中好子さんの雰囲気は母に似ているものがあるような気がします。
昨夜は息子と二人でシチューを作り、二人でそれを食べながらそのニュースを見ていました。
私が何度も田中さんの素晴らしさを語ると、息子が私に訊いてきました。
「人は死んだらどんな気持ちになるんだろう」
「苦しいのは肉体の方だから、死んだら肉体がなくなって気持ちよくなるかも、そしてそこが仏なんだろうね」
「仏になると楽しいのかな?」
「苦しいから生き返ったって人はあまり聞かないな」
「じゃあ仏になることは楽しいことだね。でもまた誰かになって生まれ変わるのかな?」
「生まれ変わるけど、それが人とは限らない」
「ああ、前に言ってたね。草とか虫かもしれないんだよね」
「そうだ、風かも知れないし、空気かも知れない」
「光になることもあるの?」
「光にも他の星になるのかも知れない」
「だって、世の中全部が仏でできているからだよね」
「宇宙全体が仏だから、死んで仏になったら宇宙の果てにも行けるということだ」
「でも仏の世界から生まれ変わるって、やっぱり勇気が要るよね」
「うん、でもそれはここに生きている人たちが死んでいくのと同じなんじゃないか?死ぬのも勇気が要るのと同じだ」
「なるほど、確かにそうだ」
「この世の中のものや生き物は全て仏でできているから、何でも大切にしなければいけないね」
息子は(時々それらしくやるのですが)ご飯の米粒を見つめながら「そうなんだよな、このお米にも仏が入っているんだよな」とうなずきました。
「そうだ、だからうまいとかまずいとか、なるべく言わず、ありがたく食べような」
(ま、昨夜は炊飯もシチュー作りも本人が大半を手伝ったので、そんなことはありませんでしたが)
田中好子さんの実家は足立区北千住にある釣具屋さんで、実は国道4号線を走る時はよく見えます。母が昔、そこを通る時に教えてくれましたが、当時は別段キャンディーズに興味があるわけでもなく、単に知っていただけでした。こういう偉大な人であったのなら、一度直接会ってみたかったですね。。
シチューはクレームが付かないように入念に倍の水と倍の牛乳で薄め、かなり薄めに仕上がったはずなのですが、今朝はやはり、予想に違わず諸々のありがたい御意見を頂戴しました(笑)。まあ、それもまた、ありがたい仏のあり方なのだろうと思い、息子と二人でこっそり苦笑しました。
平成二十四年弥生三十日
不動庵 碧洲齋