不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

決して笑えない、戦前の教科書

これは私が何故か豪州で購入した、昭和12年に発行された高等小学校向けの副読本についてです。今で言うところの中学校でしょうか。

この副読本の構成は全部で30章。内容は以下の通りです。

* 偉人伝 7 (内外国人4)

* 戦記 1

* 社会 6

* 文学 12

* 日本史 1

* エジプト史 1

* 科学 2

昭和12年というと軍事国家真っ盛りという印象がありますが、少なくとも中学校の副読本には戦争関係の章はたったの1章しかありませんでした。(しかも他の章に比べて相当つまらない、日露戦争の話しでした)偉人伝には半分以上が外国の偉人です。信じがたいことに「社会保険」の仕組みや「ボーイスカウト」の精神まで紹介しています。

個人的には文学的、国際的に非常にバランスの取れた内容だと思います。

今読んでも為になるような感じです。

ちなみにこれから紹介する一番最後の章にこの本を通じて唯一、1度だけ「天皇」という単語が使われています。

私たちが想像している戦前とはかけ離れていると、これを読んだ時に思いました。

一番最後に掲載されていた章について紹介したいと思います。著者はかの有名な徳富蘇峰。この頃の徳富蘇峰はバリバリの軍国主義国家主義として知られています。しかしこれを読む限り、いわゆるサヨクの方が強調しているような感じではありません。

というよりも、現在の日本人に欠如しているものではないかとさえ思えてしまいます。非常にタイムリーで優れた内容だと思うので、是非ご一読ください。

国史に還れ。日本国の歴史は、大和民族系図なり、吾人先祖の功科表なり、日本国民の経典なり。日本国を知るには、歴史を通して知るより他に方便なし。国史は実に忠実なる案内者、信頼すべき指導者なり。

吾人は歴史的に考慮せざるべからず、平等感よりすれば、総ての人類は皆同胞なり。されど歴史観よりすれば、総ての国は皆特殊の性格を具う。甲国と乙国とは同じからず、乙国と丙国とは同じからず、而して丙国と甲国とも亦同じからず。十国あれば十個の差異あり、百国あれば百個の差異あり。この特殊の国性を維持する事によりて、始めて独立国の意義を全うせらる。独立国の本義は、形式的に、環礁を絶ちて、自主の体面を保つのみならず、精神的にも自主ならざるべからず詳に言えば、精神的に自国の国性を把持し、保存し、開展せしめ、発達せしめざるべからず。

我が大和民族の誇りは、日本の歴史なり。この歴史の中には、必ずしも悉く正しき事善き事のみにあらず、必ずしも悉く敬すべく仰ぐべき事のみあるにあらず。人は神にあらず。人の所為には種々の過失あり、罪悪あり。されど総括していえば、日本の歴史は、大和民族の恥辱史にあらずして栄光史なり。

如何に我が皇室が世界に比類なきものなるかは、国史最も雄弁に之を語る。如何に我が国民が、一旦緩急あるに際して護国の精神を発揮せしかは、国史其の証人なり。又大和民族の中に、世界的偉人と比して一歩も劣らぬ者、即ち世界的偉人と評するに足る者を如何に多く生じたるかは、我が国史の明らかにするところなり。我が明治天皇の盛徳大業も、この国史の背景によりて始めて明白に、精詳に、之を会得する事を得。即ち五箇条の御誓文の如きも、国史の背景なきに於いては、唯一種の雄快なる文書たるに止る。帝国憲法の如きも、国史の背景なきに於いては、単に乾燥無味なる一法文に止まる。

凡そ固陋頑冥の守舊思想や、保守退嬰の島国根性や、若しくは詭激狂妄の危険思想や、浮華軽薄の模倣精神や、何れも我が国史を閉却したるために生じたるものといわざるべからず。現状を守株するも、国史を知らざるがため。現状に不安なるも、国史を知らざるがため。国民的自信力を失するも、国史を知らざるがため。うぬぼれ根性にて、酔生夢死するも、国史を知らざるがため。

国史に還れとは、総ての国民に歴史家たれと言うにあらず、唯日本国民として、日本の歴史の大精神を了解せよと言うのみ。人或いは言う、我が国には天然の資源少なしと。されど我が国民は豊富なる歴史を有せり。この歴史は、実に日本の精神的宝庫なり。卑しくも国民的に生活し、且活動せんとせば、先ずこの宝庫に向って、総ての物を求めよ。

徳富猪一郎(徳富蘇峰) 「国民小訓」

やはり母国の歴史を良く知ることは大切なんですね。

戦国時代でも幕末維新でも何でもよいので、好きなところから好きな深さで日本の歴史に興味を持って頂ければ嬉しく思います。

平成二十四年弥生二十二日 不動庵 碧洲齋