彼は儒学の誉れ高かったようです。
彼が東莱郡というところの太守だった時の話し。
王密という役人が楊震を訪ねてきました。
以前、彼は楊震の推挙で役人になれました。
そこで恩を感じた王密は、楊震に推挙のお礼とばかり、なにがしかの金子を差し出しました。
驚き怪しみ楊震が言いました。
「貴殿は私の事をよくご存じなのに、そのようなことをされるのか?」
王密はマアマアと返します。
「むろん良く存じておりますが、ここはひとつ私の恩義を報いるためにお納めくださいませ。夜中ゆえ誰も知る者はおりませぬ。」
そこで返した言葉がかの有名な「楊震の四知」です。
「天知る。神知る。我知る。子知る。何ぞ知る無しと謂はんや。」
(天は知っている。神も知っている。あなたも知っている。私も知っている。何故誰も知らないなどと言うのか。)
賄賂を持って来た王密は恥じ入って引き下がったとのことです。
今の中国のお役人の方々にぜひとも心の底から魂に刻み付け、焼き付けて頂きたい文句ではありますが、ともあれ今と同じ中国人が発した言葉という事実に驚かざるを得ません(笑)。
誰かと共謀して悪いことをしても、必ず悪事は露見すると言いたいのだと思いますが、最近、私は楊震が列挙した順番に注目するようになりました。きっとその順番には何か理由があるに違いないと考えたのです。
それで私はこんな風に思いました。
天:天地宇宙万物の真理。
神:人の道としての善悪。
我:自分の信念。
子:他人の評価。
天は人の尺度には当てはめられない、大自然の摂理だと思います。人間社会の善悪といったちっぽけなものではなく、もっと大きなうねり、流れではないかと思うのです。その「大いなるもの」がちっぽけな人の所行を観ているぞ、ということではないでしょうか。
神は人の想い。これは言うところの善悪だと思います。楊震は儒者ですから人の善性を指しているのかも知れません。基督教なら悪いことをしてしまった時、心のどこかで「チクリ」と痛むアレです。
我はもちろん自分です。自分がしていることは当然、自分だけがよく分かっていると言うことです。他人が分かっていないことも自分には分かっています。意外に分かっているようで分かっていない部分でもあります。ドラマでもよく使われる台詞ですが「他人を騙せても自分を騙すことができない。」というヤツでしょうか。
子:自分ではない他人です。相手です。もしかしたら世間体もあるのかも知れません。相手を諭したい部分なのかどうか分かりませんが、ともかく我と対等な自分以外の存在です。
この順番はなかなか奥が深いように思います。ここ最近、この順番を観るに何度も唸ってしまいます。
この楊震、まずは人智を超えた、天地宇宙万物の真理に背かず、善性に因る人の道に背かず、己の真念に背かず、世間体にも背かない、という順番で考えていたように思います。
武芸者の末席を汚している自分もささやかながら修行をしますが、真理、道、真念、社会のどれにも背かないように継続して修行をする難しさはよく分かっているつもりです。私は真理や道に背けるほどの大物ではありませんが、さりとて真念に背かないのはなかなか難しい。これは修行されている方々であれば皆、同じだと思います。誰もが例えば山岡鉄舟のような鉄壁の真念を持てればいいのですが、そんなことができようはずもありません。なので一歩下がってそうなれるように努力するだけです。
その折々、怠惰になりそうな自分を見つけたら「楊震の四知」を思い浮かべて、自分に鞭打ってみたいと思います。
平成二十四年弥生十三日 不動庵 碧洲齋