不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

「寛さ」に想うこと

最近、ネットの色々な事柄の色々な意見を読み比べて感じたこと。

とても短絡的なのがひとつ。

スイッチ式というか。

プロセスがすっ飛んでいるというか。

1はダメだから100がいい、というような。

もしくは1も100もダメとか。

また、ネットで怖いのは情報の質。

文字や画像になるまでのプロセス。

どこぞからコピーしてきているものもあり、

色々な角度からあらゆる思考に取り組んで書き上げられたものもあり。

現実的には私たちは1より2、2より3、としか進むことができません。時折偶然とか幸運が重なれば一つ飛びぐらいはあるでしょうが。

ネット世代は「ベスト」に飛びつきますが、現実的にそんなものはありません。

「やや、よりベター」なものしかないんです。

しかも歯がゆいことに、他人やその他の環境要因との最小公倍数的な程度しかよりよくなれません。

その辺り、昨今の日本人の若い世代にこの寛容性が致命的なぐらいに欠如している感があります。

この寛容性の欠如は元来の日本民族、日本文化とは相容れないようなものであるとも思います。

両手に白と黒のペンキしか持っていない場合、欧米人なら白か黒を対象物に塗りますが、日本人は状況に折り合いが付くようにうまく混ぜ合わせ、グレーゾーンを作ることに長けている民族です。

それが良いか悪いかは分かりませんが、世界でも2.3カ国を除けばおしなべて日本と日本人は非常に好意的に判断されています。これは紛れもなく日本人の資質が優れているからだと思います。

日本人はすぐ謝るが、海外ではそれは非常識とよく言われます。

謝りすぎるのは良くありませんが、その逆をしているからこそ、世の中が寒いんじゃないでしょうか。

私が知る限りは日本人のこの習慣によって、トラブルよりも断然多くの尊敬を世界から勝ち取っています。

謝ったことにつけ込んでなにをかしよう、という手合いは間違いなく下品な連中です。

ただ、この日本人の資質は大人が意識して次世代に伝えていかなければならない類のものだとも思います。

ネットで見るのではなく、ネットから、ネットを通じて知るということを心掛けたいところですね。

平成二十四年弥生朔日 不動庵 碧洲齋