実は今日は父の5回目の命日です。
昨日、ブログを書いた時は全く忘れていたのですが、帰宅後にふと思い出しました。
長いのか短いのか分かりませんが、どちらかというとあっという間だったような気がします。
そして私の禅行が本格的になったのもここから。
それまでも5年程度、時折坐っていましたが、思い返せばそんなのはまるでお遊びのようなものでした。
おかげさまで望外に優れた師にも巡り会うことができました。
一人の死で多くのことが分かることがあります。
一言で言えば「隣人」は誰だったのかが明るみになるような、そんな気がします。
私には思いの外、素晴らしき隣人が多くいたことに初めて気付きました。
ネット社会の是非が問われていますが、このときは本当にネットを通じて人の情けが身にしみました。
人の情けは遠近には関わらないのですね。
また、言外に父が言いたかったこと、実際に会ったことはありませんでしたが、父の父が残してくれたものなど、どうして今まで気付かなかったのかな、などと己の愚鈍さを思い知らされるほどに、素晴らしいメッセージに満ち溢れていました。
私は命日だからとか、お彼岸だからとか言うセンスはあまり持ち合わせていません。
お寺さんには申し訳ないのですが、合同お彼岸法要会なんかにもほとんど出ません。
毎日普通に読経して、先祖たちが考えていただろう事、先祖ならそうするだろう事に思いを馳せ、無私で子供に接したりしています。そしてお墓に行った時は念入りに読経します。
節目を付けてお参りするよりも、日頃から想う心を大切にしています。
その昔、殷王朝では「お墓」という概念がなかったそうです。
だから王様を埋葬したらその上は畑とか道とかになったそうです。
で、命日とかに何かするでもなく、日頃、何かにつけて怪我をしたり良いことがあると、「これは先祖からの警告だろうか」「これは先祖からの祝福だろうか」などと考えたようです。
その方がお金もかからずに済みます。殷王朝ぐらいまでは結構名君が多かったんじゃないでしょうか。
私はこの考えに賛成で、命日とかお彼岸とかお盆とかで強制的に思い出させるよりも、日頃から何気なく気にかけている方が性に合っている気がします。(もちろんお盆とか、命日は大切にはしてますけど)
明日は墓参りにでも行こうと思います。
2012年2月17日 不動庵 碧洲齋