不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

仏の種

毎週土曜日、私は息子を連れて春日部市にある武道館まで稽古に行きます。

だいたい1時間ぐらいですが、車中で色々な話しをします。

他愛のない話しから、なかなか奥が深い話しまで様々。

同じ時間、妻が茶道教室に通っている関係でかれこれ3年近く、このパターンが続いています。

自分を取り巻く社会的な人間関係は広まっていく一方で、時折、息子は根源的な質問をしてくることも良くあります。

祖父が他界したとき、私たち夫婦や周囲の人、果ては良く行く禅寺の僧侶まで捕まえては「なんでジイジは死んじゃったの?」という問いを連発していました。

思えば今まで何気なくやっていた禅を真剣に打ち込もうと思ったきっかけでもありました。

お釈迦様ほどではありませんが、何故人は死ぬのか、なかなか飽きが来ない命題だと思い、その頃からかなり真剣に考えるようになりました。

2/11は建国記念日、伝説によると日本ができてから2672年、皇統125代になりました。

今上陛下は今、心臓手術のためにご入院されていますが、一国民として無事を祈らずにはいられません。

話が逸れましたが、この日、いつものように息子を連れて稽古に向かいましたが、突然息子が尋ねました。

「今、悟りを啓いたお坊さんはいるの?」

「もちろん、パパが通っている両方の坐禅会の老師様たちは悟ったから老師になれたんだ。」

「でもさ、人間は死んだらみんな悟って仏になるんだよ。わざわざ死ぬ前に仏を見てみようなんて考えなくてもいいじゃん」

実は翌日日曜日の早朝坐禅会に出てみないかと言い続けていたので、息子としては座禅会に行かない理由を探していたようですが、思いの外、私には答えられませんでした。

昨日、東京の坐禅会の折、老師にこの質問をしてみました。

老師曰く、人には皆、仏の種があるそうです。

あの世から別れて娑婆に来たとき、私たちには一粒の仏の種が託されています。

もちろん、それはそのままあの世に持ち帰っても一向に差し支えないのですが、できることなら土に埋め、水をやり日を当てて育て、美しい仏の花を咲かせ、できることならそれを以て周囲の人の目を楽しませてからあの世に帰る方がよいのだそうです。

読経や坐禅をはじめ、数々の善行はみな、その仏の花を咲かせるためなのだそうです。

今朝、朝食時に息子にその話をしてあげました。

美しい花を咲かせ、周りの人に楽しんでもらえる花、それが仏の花であり、皆に必ず一粒は託されているものであると伝えました。

その貴重な仏の花の種を咲かせてからあの世に行きたいね、などと朝から物騒な話しでしたが、息子は老師のこの回答に非常に感心した様子でした。

息子には私の父が咲かせた仏の花が見えたのでしょうか。

全く以て救い難いほど愚鈍な私には、今頃になって先祖たちが咲かせた見事な仏の花が咲き誇る様が見えてきました。

画像

SD120213 不動庵 碧洲齋