父は若い頃、2年ほど陸上自衛隊に入隊していました。
ちょうど「保安隊」から「自衛隊」に名称が変ったときでした。
陸上自衛隊では重火器中隊に所属していたため、重機関銃やバズーカ砲、迫撃砲などと一緒に写っている写真を見ることができました。
エラく誇らしく思ったものです。
ほとんどの写真は富士山裾野の演習場だったため、写真にはよく富士山が映っていました。
今思うと、その富士山がとても美しかったような気がします。
そのセピア色の富士山は今でも脳裏に強く焼き付いています。
小学生の時は戦争のことを知ることが大好きで父に色々質問しましたが、こちらが感心するぐらい良く軍事について詳しかったのを覚えています。エアーガンで捧げ銃のやり方を教えてもらったりもしました。
中学生後半から大人になる頃にはさすがに私の方がよく知ってきたため、軍事に関してはあまり話さなくなりましたが、父とは良く歴史のことについて話した気がします。時代劇が好きだった父は軍事と同じぐらい良く歴史に関しても知っていました。
20代は留学や海外赴任、地方都市赴任が多かったので、父とあまり話す機会はなかったのですが、母が亡くなって結婚して家を出るまではなにがしか話した気がします。このとき、結婚をする意義などについて、色々考えさせられました。
結婚して子供ができたとき、実家に戻りました。
今まで全く親孝行ができていませんでしたが、孫と暮らせる楽しみを持たせてあげられることができ、初めて少しほっとしたものでした。このときは血のつながり、営々と続く命の流れについて、本当によく考えさせられました。その時に今、和室にかかっている教育勅語の掛け軸や、父母の生い立ちなどにも深く省察したものです。
父が亡くなってからはじめて、両親や祖父母たちがどんなことを考え生きてきたのか、リアルに分かってきました。霧が晴れて山が見えてきたような、そんな感じです。その気持ちを私は息子に熱心に話します。私と違って息子はそういう私の気持ちや考えを良く受け止め、察してくれます。
息子とは時々、もの凄く深い哲学的、宗教的な話しをしますが、理解力の高さに驚かされます。多分それは息子が大きくなったときにきっとなにがしかの役に立つものではないかと思います。私にとって父は何度もやってきたスーパーマンのような感じでしたが、息子にとって私もそのようでありたいと思います。
SD120201 不動庵 碧洲齋