最近また、聖書を頭から読み始めました。
欧米人との付き合いが多いため、欧米人の精神を理解する一端として読み始めましたが、20代後半は一度ハマりましたね。クリスチャンになろうとは思いませんでしたが、非常に傾倒したものです。
欧米の映画や物語などにも聖書の言葉が良く出てきます。
そういう意味でもこの少々長目の書物を読むことは、欧米人を理解するためには非常に有効と考えます。
むろん、聖書は文学的にも哲学的にも比類なき完成度の高さを誇る書籍ですから、アンチ宗教の方も読むことをお勧めします。
私自身は今回で多分6回目ぐらいでしょうか。英語版を含めると7回目ぐらいかな。
禅を真剣に行じてからは初めてになります。
まもなく創世記を読み終えます。
禅的視点から読む聖書は、これはなかなかおもしろく感じます。
アダムとイブのくだりは興味深いですね。
人間が他の動物同様、無分別の中にいたのに、あるとき突然、分別の世界に迷い込んでしまいました。何故そうなったのか、なぜそうならなければならなかったのか、これは考え甲斐のある命題ではないでしょうか。
神様の意図は分かりませんが、少々イジワルな感じもしなくはありません(笑)。
もしかしたら神様も随分とお暇だったのではないでしょうか(爆)。
しかし、禅的には相対世界ありきの絶対世界です。
他の動物が持つ絶対的感覚を悟るのが目的ですが、人間だけが相対世界と絶対世界共に知ることができます。これは本当に神から与えられた人間だけの特権なのかも知れません。
(だからなんだと思わなくもありません・笑)
ノアの方舟とバベルの塔に関しては、神様、ちょっとワガママすぎませんかと苦言したき感あり。クリスチャンの方には恐縮ですが、洪水の後「こんなことはもうしない」という言葉翻して、またバベルの塔を破壊して、言葉を分からなくするなんてちょっと大人げない気もしましたが、多分そう思ったのは私だけではなかったはず。
アブラハムに息子を生け贄にせよと言った神様、そんなに人の忠誠を試すのが好きなのかと、これまた不満を感じます。多分、これは今のイスラエル人の有り様そのままではないかとも思います。こんな神様に選ばれし民は今、周囲を異教徒の敵に囲まれ、いつも戦闘態勢でビクついています。こういう仕打ちは人間だと許されないで神様なら許されるなんて、私はあまり感心しないんですが・・・。
神様の悪口ばかり書いてしまって恐縮ですが、偽ざる私の気持ちですのでご容赦下さい。
ま、クリスチャンではない私には聖書の行間を読む能力にはいささか欠けるのは認めます。本当はもっともっと深い意味があるのかも知れません。
創世記で感銘を受けた言葉
「あなたは塵だから塵に帰る」(創世記3:19)
これは別に「キサマは屑野郎だから屑に帰りやがれ!」というわけではないと思います。多生の皮肉はあったかも知れませんが。私などはこれは「あなたは仏だから仏に帰る」にしても良いと思います。要するにそういうことです。生まれる前にいたところに戻るだけ、それだけ。だから今、現世に執着しているあなたは塵に過ぎないほどの存在だと言いたかったのかも知れません。
散々神様に文句を言ってしまったので、天誅が下されはしないかと、ややビクつく碧洲齋でした。
平成二十四年卯月二十八日
不動庵 碧洲齋