不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

南北戦争についてちょっと

画像

アメリカ人で「コイツ、スゲーな」と思っている人がいます。

彼の名はRobert Gould Shaw。南北戦争時、劣勢な北軍にあって、黒人たちによって編成された最初の部隊、第54マサチューセッツ連隊の隊長(大佐)でした。「グローリー」という映画にもなっています。

私はこの映画がきっかけで、南北戦争を知るようになり、ボストンにも行ったものでした。ちなみにボストンは今でも一番行ってみたいアメリカの町です。滞在できたのはたったの2泊でしたが、多分あの町は私好みの町です。今度はもっと時間をかけて行ってみたいですね。ロバートが住んでいた家や彼とその部隊のモニュメントなどは今でも良く覚えています。

南北戦争というとリンカーン奴隷解放というイメージが強いのですが、実はそれは後からとってつけたもので、実は北部の産業、南部の農業との格差というか社会的な構造の違いの軋轢によるものでした。

言うまでもなく戦った場合、経済的に有利だった北部の方が圧倒的に有利でしたが、南軍はこれ有ることを予想して、リー将軍を総司令官として周到な準備をしてきたとされています。リー将軍は今に至っても能力と人徳にかけては極めて優れた方で、日本で言うとさしずめ乃木将軍のような人柄だったと勝手に想像しています。故に前半は経済的に不利だった南軍が圧倒的に優勢でした。

そこで窮地に立ったリンカーンが思い立ったのは「奴隷解放」。ちなみに彼はアメリカを一つのままにできるのなら、奴隷制度もそのままで良いと手紙などで明言しています日本ではあまり知られていませんが。勝ったからリンカーンの声名は維持できたようなもの。これで負けたら散々だったでしょう。

世論はもちろん、奴隷制度には反対の趨勢ではありましたが、その際筆頭が何を隠そうボストンの市民でした。今でもボストンに住んでいる黒人たちは他の町の黒人とは雰囲気が全く違います。この町から奴隷解放が叫ばれたとしても「ああ、なるほど」と納得してしまいそうな雰囲気です。誇りに満ち溢れている人が多かったように思いました。

ちなみにジョン万次郎も救出された後、ボストンの郊外で育ちました。そういう気風があったからこそジョン万次郎はアメリカ人からしても優秀な船乗りになったのです。留学中に彼の子孫の女性にも会ったことがありましたが、すっごく美人だったのを覚えています(笑)。惜しむらくは彼の帰国後、古い身分差別に囚われていた日本は万次郎をうまく登用しなかったことにあります。咸臨丸の太平洋横断以外、彼は概して不遇でした。晩年は英語も忘れるほど閉鎖的だったと言います。

話が逸れましたが、足りなくなった北軍の兵隊を黒人で補充するなどということは、多くの白人たちは反対でした。しかし若きロバートは理想に燃えていたのだと思います。戦争が始まるとすぐに従軍し、インテリクラスだったので士官待遇、親が州議会議員だったので更に高かったのでしょう。

北軍で最初の黒人部隊だけあって問題もたくさんありました。まず給料が白人の半分、ロバート以下、部隊の兵士たちはロバートが死ぬまで給料を受け取らなかったそうです。私は第54マサチューセッツ連隊の伝記を英語で読みましたが、彼らの活躍は本当に苦難の連続でした。

ロバートが戦死した地にも行きました。サウスカロライナチャールストン、奇しくも南北戦争が始まった地でもあります。火器というものが人類で初めて集中的に大量投入された、最初の戦いだったので、戦い方も古典的で、90万人近くが戦死、戦病死しました。これは第二次世界大戦の戦死者よりも多い数です。ちなみにロバートは北軍初の黒人部隊の隊長だったと言うことで、南軍から他の黒人兵士らと一緒に軽蔑を込めて埋葬されました(普通は白人と黒人は一緒に埋葬されない)が、彼の両親は非常に誇りに思ったそうです。私も親としてこうありたいものです。

ロバートは10月10日生まれなので、私と同じ天秤座です(笑)。何となく彼の感性というか考え方に共感できるんですね。自分も同じ立場だったら同じ事をしただろうな、なんて思ったりしました。 ちなみに彼はニューヨークで働いていた時分、日本からの遣米使節団の一行を見ているはずです。どんな風に思ったのでしょうか。

ボストンに行った折、かの有名なボストン美術館にも行きましたが、残念なことにその時有名だったアジア館が改修中で閉まっていました。今、東京の国立美術館にてそれをやっているので是非観に行きたいと思っています。

平成二十四年卯月二十八日 不動庵 碧洲齋