今朝、古参の先生が昨日亡くなったと連絡が来ました。
私はそれほど親しくしていたわけではありませんが、宗家の稽古では時折、指南して頂いたものです。
多分、胃がんだったと思います。最後にお会いしたのは昨年の初め頃でしたが、その時に胃がんのために胃を一部切除したと聞きました。その時、以前お会いした時に比べて物腰がかなり柔らかくなっていたので、ある意味危惧していました。
高弟の先生で亡くなった方ははじめてではないでしょうか。
やはり時間の流れというものは遅いと思っても粛々と流れているようです。
私も入門してから26年が過ぎました。
別段、他の方たちよりも精進したつもりはありませんが、それでも時折やってくる初心者を見ると、時間の流れを感じずにはいられません。
個人的に今年は「The year of shugyo」つまり修行年と定めました。
息子が今年3年生になり、多少手が離れてきたと言うこともあり、やや修行に専念したいと思った次第です。
私は意志の固い人間ではないので、思っていてもズルズルと実行できないことが多々あります(これは全く謙遜ではなく、本当に)。
ところが数年に一度ぐらいの割合で、スッと定めたことは不思議と周囲がそういう環境になっていたりして、環境や周囲に助けられて達成することがあります。
中国で言うところの「天の時」なんでしょうね。
今年はその天の時のようです。
年末から数年ぶりに読書が始まりました。今まで禅がある程度になるまではと、控えていたのですが、そぞろ読み出しました。禅のレベルが上がったのかどうかは分かりません。とにかく読書がしたくなったのです。
禅の師も今年は特に「修行」を打ち出してきましたし、自分で課題だと思っている命題に無理なく取り掛かれています。
武芸の師も似たようなことを偶然にも言っていました。
武芸でも2年ぐらい前から取りかかろうと思っていた幾つかの課題がカチッと日常生活の所作にはまり始めました。(こういう言い方が一番適切な気がします)
歳が歳だけに、昔のように「自分だけ」という訳にもいかず、後進たち、特に外国人の同門には積極的に発信していかねばならないのかなとも思います。好む好まざるに関わらず、そうせねばならない時季を感じます。(個人的にはしたくありませんが)
また、学問に関してもロシア語と定めていたので、熱を上げたいと思います。
むろん、修行を阻もうとする魑魅魍魎の類は常に私の周りに跋扈しています。しかし天の時を得た時は恐ろしいほどにそれらを斬り捨てられるものです。
そうやって、修行の途上で私も死にたいといつも思っていますが、死ぬまでそういった気力が続くよう、こればかりは神仏に祈らずにはいられません。
SD120118 不動庵 碧洲齋