不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

子育てについて思うこと

うろ覚えで恐縮ですが、確か本田宗一郎氏が言った言葉で印象深いものがありました。

「テレビと炊飯器のマニュアルが違うように、子供の育て方もまたそれぞれ違うマニュアルがある」

この言葉を知ったのは結婚前ですが、はなかなか奥が深いと思ったものです。

競争社会を否定するわけではありません。

私自身を振り返ってみると、学校でもういささかシゴかれた方がよかったかなとも思います(笑)。

小学生から高校生まででとても感じたことがありました。

多くの先生たちには恐ろしいほど哲学を感じなかった点。

全員ではありませんが、かなりの数の先生には生徒に伝わるモノ、熱意でも理論でもおもしろさでも何でも良いのですが、それを感じませんでした。

それと歴史観の欠如。まあこの頃は日教組全盛期でしたからやむを得なかったのですが・・・。

小学校で「これは」と思った先生は2名。

中学校では1名で、高校では皆無。まあ、非常勤の英語講師は世界を知っているなと思ったぐらい。

これが日本の教育だと思うと思い切り寒いです。

勉強がよくできる、運動がよくできる、これに関しては多少親がプッシュしてもよいとは思います。

その点、私の生まれ育った環境はあまり厳しくなかったかもしれません。

しかし先に述べたように、子供一人一人の育て方は違うのです。

私が好んで使うたとえは「種」。

種を植えます。1週間後に芽が出ました。しかし一方はぐんぐん伸びて、もう一方はほとんど伸びません。ぐんぐん伸びる芽はよくて、伸びない方はダメな種でしょうか?違います。片方は朝顔の種でもう一つは楠でした。どっちが役立つ?これも意味がない。片方は人の目を楽しませ、片方は木陰や木材を人に提供します。共に重要なのはどんな方法であれ自分のためではなく、他人のために役立つこと。私はよくこの例え話を息子にします。神社やお寺で祈る時も「自分のため」では決して叶えてくれない、と息子に言います。

教育とは子供が一体何の種なのかを見極める機微と、時節到来を待つ忍耐が親に要求されると思っています。

故に私は子供に対しては人としてあるべき姿を仏教を初めとする宗教哲学や過去の偉人たちを介して諭すように努力しています。私なんぞはクソみたいなものです。私から直接学べることは少ないものです。しかしそれでも私自身も常に修行に身を置いて、先人たちに学ぼうとする姿勢は、息子には役立っているはずです。

今の教育では「どうやって」やるか、ノウハウは情報過多ぎみに多いものですが、「なぜ」という根本命題に関してはほとんど役立っていないように思います。そもそも文字言句で教えようとすること自体が無理なのです。私は「なぜ」は体を張ってでしか示せないと思っています。

どこかの家庭の会話にありました(仮に「どこかの家庭」、としておきましょう!)。

親A 「将来は何になりたい?」

子供「う~ん、宇宙飛行士かな」

親B 「それじゃ、普通の公立学校なんかに行っていたら絶対になれないよ!良い学校に行って、塾にも行って、一生懸命に勉強しないとなれないよ!」

親Aがどんな返事をしたかは言わないでおきましょう。

何になりたいか、という問いに対して方法論ではない部分の会話をすることが、親に課せられた重要な使命だと思っています。よい学校に行ったり、一生懸命に勉強したりするのは自分が気付いてからすべきもので、気付いてもなかなかエンジンがかからない時に上記のようなことを言うべきだと思っています。そのような誰に聞いても同じ答えが返ってくるような愚答は親の口からは漏らしたくないというのが私の矜恃です。

息子は算数が得意なので、よく数字を出します。

国際宇宙ステーションの建造費用が12.3兆円、でも毎年世界で使われている軍事予算は少なくとも400兆円。

軍事力の全てが無意味だとは言いませんが、人類が一丸となって宇宙開発に取りかかったら、どれほどの問題がカンタンに片付くことか。

超光速は今の科学では無理だと、息子も知っています。

しかし天体望遠鏡で星を見せます。

300年前は人が超音速で飛んだり、宇宙に行くことすら夢物語だった。

お前自身は超光速に立ち会うことはできないかもしれないけど、お前の孫は可能かもしれない、とよく言います。

そう考えると、息子にとって「スタートレック」に出てくるスターシップも実にリアルに思えてくるものです。

人一人に何でも全部押し込むのは酷というものです。

親は子供という種の核に重要なメッセージを入力して、それが何の種であり、どんなところが一番成長に適しているかを知ることが使命です。

何かの昔話みたいに、芽が伸びないと芽をチョン切るゾ!なんて脅かすものではないはずです。

私の祖母は夫が米国人による爆弾で戦死させられたにもかかわらず、死ぬ間際に英語を学ぼうと思い立ちました。

英語を話し、世界中の人と解り合えば、戦争は確実に減ると思ったそうです。

母も数年、英会話学校に行きました。母は祖母の言葉を信じていました。

相変わらず世界は戦争が多いですが、取りあえず私は世界のかなり多くの人たちと語り合う機会を持っています。

ネットや実際に会ってはつたない英語で日本文化を通じて、わずかばかりの国際交流に貢献しています。

息子はもっと普通に国際交流をするでしょう。私まで実に3世代かかっています。

そういうものもあるのだと思って教育に目を向ければ、不毛な個人主義や教育至上主義もどこと吹く風です。

親は一歩先でやはり修行をしている人間で、ほんのちょっと先を歩んでいるから親切に後進を手助けしているだけです。

修行をしている姿を息子に見せ、答えのない命題を共に考えて悩む、こういう姿勢は何にも増して重要ではないかなと、日々思っています。

SD120106 不動庵 碧洲齋