先日、ふと目に止まった単語です。
調べてみると、遺言ほどにはフォーマルなものではなさそうです。
映画のタイトルにもなったとか。
生前の思いを残された人に托すものだとか。
私は基本、エンディングノートも遺言も残さないつもりです。
私の両親も残しませんでした。
大きな資産があろうとなかろうと(ないですが)遺言は残しません。
残った人たちが自分で意をくみ取って行動すれば良いだけです。
良いも悪いも死人に口なしです。
私はここ数年、やっと母方の祖父母、父方の祖父母、そして両親たちが何を考えていたのか、ようやく分かってきました。
数少ない遺品、思い出、祖父母から受け継いできている僅かな品々から、思いを巡らし、思い悩み、坐禅をしたりしてこの考えに至りました。
言っては何ですが、彼らがどのように考えていたのか、かなり自信というか確信があります。
だから息子にも先祖からの思いを熱心に確信を持って語ることができます。
息子がそれを理解するとか受け入れるとか、そういうことはどうでもよいのです。
いつか分かる時が来たときのために語るだけです。
私が死ぬ前に理解するかもしれませんし、息子の息子になって理解するかもしれません。
それは息子とそれ以後の子孫たちの問題です。
私はただ、祖父母たち、両親が想っていたことを伝えるだけです。
それらの中には道徳や歴史もかなり織り込まれていることでしょう。
学問は重要ですが、これは自分で気付いて好きな方面に向かえば良いだけです。
ただ、語り尽くせなかった、ということがないようにしたいと思います。
ふとそんなことを想ったのでした。
SD120120 不動庵 碧洲齋