不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

隣人とは

「文句ばかりいう相手や、世間のあら探しが好きな相手と一緒にいるよりも、幸福そうな顔をした人や、成長し人生を楽しむことに関心を抱いている人に囲まれているようにしなさい。」

ウェイン・W・ダイアー、米国心理学者

1. 文句ばかりいう相手や、世間のあら探しが好きな相手と一緒にいるよりも・・・

仕事でもプライベートでも文句ばかり言ったり、世間や他人のあら探しをすることが目的のような人が何人か私の周囲に見受けられます。

もちろん、私も全く言わないわけではありませんし、もっと若かった頃は結構気炎を上げていたこともありましたが、それなりの年齢にもなって上記のようなことをすることに喜びや快楽を感じる人は、基本的にどんなに能力があっても財力があってもお近づきになりたくありません。

ただ、現実にはそうも行かない場合もあるので、そういう人の近くに行かねばならない時は沈黙を以て接することにしています。

この手の人たちは言葉で語れば言葉で反撃します。

こちらの言葉が正しいかどうかではなく、反撃することそのものに目的があるように思います。

所詮、言葉などは目に見えませんから、言葉の投げ合いは水掛け論です。

目に見える沈黙や言葉によって意思を表示する方がはるかに健全ですし、相手に分かりやすいと思います。

とは言っても、別に無視するわけではなく、相手の機嫌が良ければ相手の言った言葉は笑みを以て迎えますし、質問があれば誠心誠意返答したり、助言します。

ただ、やはりそういう人に対しては自分から積極的に話しかけたり、必要最小限以上のことは尋ねたりしないようにしています。

その人の悪徳を助長させないための慈悲だと、自分では言い聞かせていますが(笑)。

もっとも、私の場合、別に嫌いな相手でなくとも、会社ではそんなに積極的に話しかけたりはしないことが多いです。

禅を行じていると、よく言葉の無力さ、弱さ、不確定さを思い知らされます。

もちろん、励ましの言葉、慰めの言葉には絶大な力があることは間違いありません。

しかし基本的に言葉が力を持つのは言った人と言われた人とが互いにシンクロしている時に限ります。

シンクロしていない限りは言葉は風のようなものです。

それに比べて行動は現実に起こっていることですから、少なくとも言葉よりは力があります。

多分、禅はそういうことを気付かせるために修行中の言葉が少ないのかなとも思いますが、よく分かりません。

2. 幸福そうな顔をした人や、成長し人生を楽しむことに関心を抱いている人に囲まれているようにしなさい・・・

人の一生は修行だと私は信じています。

修行だと思うが思うまいが、人生は常に死ぬまで何らかの困難があり、それを乗り越える喜びを持つというプロセスが断続的に続く以上、それは修行だと言っても過言でないように思います。

だから、私は人生を修行と見なして、乗り越える楽しみを持つ人と仲良くなりたいと日々思っています。

実際に、武芸でも禅でも実に素晴らしい師や友人に数多く恵まれています。

こういう人たちとシンクロしていることは喜ばしいことです。

聖書に「汝隣人を愛せよ」という言葉があります。

この「隣人」とは別に隣に座っている人とか隣に住んでいる人ではありません。(もちろん、大抵の方はご存じだと思いますが)

私的にはこの「隣人」とは上記のような意味でシンクロしている人を指しているのかなと思います。

「家族だから」「兄弟だから」「親だから」と聖書は言っていません。

隣人イコールこれらの人ではないと、聖書では断言しています。

血の濃淡ではなく、愛の深浅で計っている当り、聖書の奥深さがあります。

また、聖書ではわざわざ相反している部族同士を隣人としてたとえているところが意義深いように思います。

聖書で言う「隣人」たちこそが多分、言うところの「幸福そうな顔をした人や、成長し人生を楽しむことに関心を抱いている人」なのだと思います。

世はITの時代です。

ITの力を以てすれば地球の裏側でも「隣人」たりえる時代です。

隣人を増やすツールとしてはITは非常に優れたものだと思います。

地球の裏側に自分を心配してくれる人がいることが分かる技術は大したものだと言わざるを得ません。

私もまだ会ったことがない、非常に素晴らしい「隣人」がたくさんいます。

本当にありがたく思い、いつも感謝が尽きません。

これからもそのような人に囲まれて生きていけるよう、徳を積み行いを慎んで参りたいと思います。

SD120119 不動庵 碧洲齋