優れた師を捜すというパターンは、求道者の重要なステップとしてドラマなどではよくクローズアップされる、重要なシーンです。
例えば映画なら、2時間の内、遅くとも前半で主人公は隠者で賢者のような師と巡り会います。
そしてそこから、二人三脚の厳しい修行が始まり、やがて成長した主人公は宿敵を倒すというのが大筋でしょうか。
現実的にそういう確率はどれほどのものか。
隠者が全て優れているわけではなし。
世で隠すでもなく粛々と稽古を重ねている中にも優秀な方もいます。
そして、最も重要なのが、インターネットがこれほど発達した世の中であっても、出会わないものは出会わない、ということです。
私はケンシロウより全く弱いですが、それでもヤツほどには運命とか宿命を信じない方です。
(ま、宿命はちょっとだけはありかな)
映画のたとえのような修行は、修行の定義を著しく狭めていると言えます。
私の考える修行は思った時が修行の始まり、投げ出せばそれまで、というものです。
自分の分身とか影のようなものかもしれません。いつでも立ち返れます。
(もちろん振り出しに戻ることもありますが)
師が見つかるかどうかは己の修行の過程の、重要ではあっても一コマにしか過ぎません。
故に師が見つからないから修行できない、なんていう人がいたら甘ったれるなと言いたくなります。
やることが分かっているなら正念工夫と精進が真の師です。
・・・というと身も蓋もなくなるので、私が徒然思うこととして・・・
己の志よりも高い先生は現れません。
己の志よりも低い先生は目に入りません。
ストライクゾーンのところに正師がいた場合にのみ、いわゆる正師逢見という言葉が当てはまります。
そして師弟でどんどん高くなっていく、そんな感じでしょうか。
もちろん、高くなって行くに従い、違う道になることも、場合によっては師を超えることも、後進に超えられることもあるでしょう。
ともかく己の志相応の先生しか、自分の先生たり得ないのです。
例えばチョロッと護身術を学びたいだけの人には、人生全てを武芸に捧げ、修行を以て己の人生を体現化しようとしている先生ではちょっと引いてしまうかもしれません。
心底、生涯を通して心身共に強くなりたい、という人には道場経営と権威付けに忙しい先生は間違いなく先生たり得ないでしょう。
高い志を持っているのに、正師逢見がない!と思っている人は、
・実は大した志を持っていない。
・既述の通り、他力本願的発想である。
という理由で目が節穴になっているか・・・
・運が悪い。
ということですが、3つ目はほとんど理由にならないでしょう。
結局、自分相応の先生に運良く出会えるか、そして共に高めあうことができるかどうかにかかっています。
私自身、私が今の武芸の師に出会った頃の師の年齢になり、例えばベストキッドのように素晴らしい弟子と会って、自分の全てを注ぎ込みたいと思わなくもありませんが、結局は自分自身が修行に貫徹するしかないのです。
その過程で偶然、都合よく若き求道者が現れればそれでもよし。いなければいないでそれが私の修行です。
後継者たるよい弟子を捜そうなんて思ったら、即、道場ビジネスに早変わり、良い解釈をしても自分自身の修行などではなくなってしまいます。
私の場合、一流派の継承者でも何でもありません。一修行者です。
だから私の武芸哲学を継承する人がいなくても、正直何とも思いません。
そもそも私の武芸哲学は私だけのものですから無理してまで他人に理解してもらおうとも思っていません。
もちろん、一端でも理解し、協賛してくれる人が同門であり弟子と言えます。
そういう人には多少ではありますが、親切に説明はしなくてはいけませんが。
むろん、一流派の継承者はまた別の考えがなくてはいけないと、同時に思います。
こういう喩えが合っているかどうか分かりませんが、私の武芸は小乗仏教的なものかもしれません。
むろん、どちらがいいという類のものではありません。
もそっと簡単に言うと、系統立てたり、理論づけたり、後進を育成したりする労力が惜しいだけとも言えます(笑)。
私には家庭があり、他に武芸よりもすべき事も多々あります。
実際に自分の流派の宗家の大変さを見ていると、切実にそう思います。
私自身は運がよいことに武芸でも禅でも二胡でもおよそ求めうる限りの最高の師に付くことができました。
それは運の良さを取り除いても、一応そこそこ高い(と思っている)志と自力本願心、正念工夫があるためと自分で分析しています。
求道中の若者は是非もう一度、自分の志のあり方を見つめ直してみて下さい。
SD111202 不動庵 碧洲齋