剣を以って刺すように、みだりに言葉を出す者がある、
しかし知恵ある人の舌は人を癒す。
私は聖書は好きな方で、数年に一度は読むように努めています。
来年辺りは久しぶりに読み返そうと思います。
好きな名言はいくつもありますが、言葉に関する言葉の中では上記はなかなか優れたものだと思います。
お釈迦様も「人は生まれながらにして口の中に斧が生えている」と言ったそうですが、本当にそう思います。
私の周囲にもそういう意味で「残念な人」が少なからず見受けられます。
言葉を口に出す時、言われた人が何らかの利益を得たり、癒されたり、勇気付けられたりするならともかく、そんをしたり、不愉快になったり、心情的にマイナスになったりすることを好きこのんで言う、いわばS男君、S子さんがいます。
他人を虐げたり、罵ったり、詰ったりすることがともかく至上の快感に感じるようです。
端から見ていて気持ちが悪くなるのですが、本人たちはともかく比べようがないくらい気分が高揚するらしいです。
愚痴、文句、皮肉、悪口は麻薬のようなものだと自分でも思います。
私とて全く言わないわけではありませんが、なるべく言わないように努めてはいます。
もちろん畏れも持っています。
私は聖人君子ではないので正直に言いますが、こういう人がかなり嫌いです。嫌いになってきました。
特に禅を行じるようになってからは特に発する言葉が量よりも質に転じてきた気がします。
(あくまでも言っている私個人の感想で、聞いている側の方々はどう感じているか分かりませんが)
それ故にエゴの火炎を吐き散らすミスター/ミス・エゴにはどうにも近寄りがたいものがあります。
出来ることなら接することなく済ませたいところです。
とは申せここは娑婆、それもそれでひとつの仏のあり方、それを以て自分の仏性を見照させる修行だと思えばよし。
いやだな~、腹立つな~、なんて思う方もまた、エゴです。水の流れの如く、そんなものはスッと流してしまうに限ります。最近は少しずつ、それが分かってきました。
そういうコマッタ事を言う人の特徴は結局、気炎を吐き散らして、自分という存在を確認せずにはいられない、ある意味可哀想な人たちです。
自分なんて、あるときあるところに発生した現象に過ぎません。海の波のようなものです。
そこにきて「俺が俺が」とか「私が私が」などとシャカリキになって他人に迷惑を掛けるような人には慈悲と憐れみを以て接するか、黙っているかに限ります。私は慈悲深くないので黙る方ですけど。
大抵、黙っていると、上記のような人たちはかなり苛立ってきます。
私も意地が悪いのですが、おもしろがって黙ります。
彼ら彼女らは苛立ちが何なのか、分からずに苦しみ、逆ギレしてしまうようです。
世の中の成り立ちの根っこの部分は少なくとも「言葉」、特に人に益することのない言葉には依存していないものなのだと、理解して欲しいと思っています。
SD111213 不動庵 碧洲齋
*111216 M男、M子ではなく、S男、S子でした。訂正済み。