私が比較的好きな諺にこんなのがあります。
「包帯を巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない。」
アーネスト ヘロー
これは故三浦綾子さんが執筆した「氷点」か何かに出てきた言葉でしたが、なかなか感銘を受けたものでした。
禅を始めてから痛感することしばしばですが、言葉についてよく考えさせられます。
つまり、発した言葉が相手にとって何らかの利益になるのか、自分にとって利益になるのか、第三者にとって利益になるのか、ということです。
利益というのは別段お金でなくとも良く、癒されるとか、為になるとか、最低でもコミュニケーションの潤滑剤になるとか、そんな程度の意味です。
そう考えると本当に、日頃から無駄な言葉が多いいと実感します。
禅を行じてからは、このことにはできているかどうかは別として、特に気を遣っています。
自分の憂さを晴らすためだけに言葉を発する人がいます。
深山とか絶海の孤島とか完全防音装備の部屋でならともかく、わざわざ相手を作ったり、第三者の前でそれを言います。
その言葉を発したところで、言われた側は喜ぶでもなく、良いアドバイスと思えるわけでもなく、一層コミュニケーションを取りたくなると思うでもなく・・・。
お釈迦様は「人は生まれたときから口の中に斧が生えている」とおっしゃったそうですが、それはこのようなことなのかなと思ったりします。
相手を想うあまりに発する言葉は、それが厳しいか優しいかは別として、「心配する」と言います。
相手を思いやる余り、自らの心をちぎって配ってくれる、ありがたくももったいない言葉ですね。
で、どこの誰も何の利益にもならず、楽しい気持ちにすらならないコトバは「針排(シンパイ)する」なんて言ったらどうでしょうか。
針を撒き散らす様がぴったりのように思います。迷惑この上もありません。
私の周りにもジャンジャン溢れんばかりに口から針を吐き出しまくる人を見かけますが、そんなに口から針を吐き出したのでは、自分の口も傷つけてしまうでしょうに、と同情すら湧いてきます。
「包帯を巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない。」
これは、真心がないのなら、他人に語ってはならない、と言っているようにも思いました。
これは嘘を言ってはいけないというレベルではありません。
人を救うために嘘を言わねばならないことだってあるわけですから。
孔子は「恕」という表現をしました。儒教の最高理念「仁」でも良いかもしれません。
日本人であれば「和」でも良いのでしょうか。
不平不満、皮肉や誹りを相手にぶつけることで歓喜に浸っているような人は多分、いつかきっと手ひどいしっぺ返しを喰らうと思いますが、逆に言われたら「我」などないと思うようにしています。
言っている側はそのうち空気や水に拳を突き出している愚を実感すると思います。そこで反省してくれればいいわけです。
ま、自分の心を配ってくれる「心配」も仏の有り様の一つならば、ザクザク口から針を吐き出す「針排」もまた、仏の有り様の一つです。どの行いも全て尊いのでしょうけど、そう思うまでにはまだ、時間がかかりそうです。
SD111116 不動庵 碧洲齋