昨日のアクセス解析を見てびっくり。
「辛い記憶のバケツ」で私のブログにやってきた人が何と多いことか。
だって、YAHOOで完全一致で検索するとたった12件しかないんですよ。(11/1現在)
コメントも珍しく知らない人から2つも来ました。
多分、このバケツに悩み苦しむ人が多いんでしょうね。
男女というのは外見だけでなく中身もかなり構造が違うようですが、あいにく私は女ではないのでその辛さは分かりません。
ただ、「辛い記憶のバケツ」という類のものなら私も過去に持っていました。
苦しかった、辛かった、耐え難かった。
おまけにバケツの中身をひっくり返すことが恥と思っていたので追い詰められていました。
うつの一歩手前、自殺の一歩手前だったでしょうか。
私の場合はそういう意味では強運の持ち主のようで、そこから導いてくれる師と出会うことができました。
過去というのはタイムマシーンでもない限りは1ミクロンも動かせないのです。知ってますね?
未来というのもタイムマシーンでもない限りは1ミクロン先をも見えないのです。分かりますね?
ところが私たちは絶対変えられない過去、絶対分からない未来に執着するあまり、苦しみます。
もっと正確に言うと、変えられない過去、分からない未来に強い思い、離れがたい想念を以て執着している自分自身の心が苦しめているのです。
過去や未来そのものは本来人畜無害です。
試しに秤の上に過去や未来を乗せてみなさい。多分、それはあなたの上空10000メートルから落とされても無傷でいられる程度の重さしかないでしょう(笑)。
罵詈雑言の類も然りです。
逆にそんなものに妄執を抱いている自分の心、これが問題なのです。
私の経験では悩みや苦しみの半分以上は間違いなくコイツらから来ています。
その程度の重さしかないものですから、サラリと流せるのです。楽にはいきませんが。
川とて清らかなのは流れるからです。
溜まっていては淀むばかりです。臭くなります。
清流は自然に人を呼び寄せます。
社会に尽しているそのもの、他人に尽しているそのもの、何かをしているそのもの、自分らしき正体はせいぜいそんな程度のものです。
自分は自然や社会の一現象にしか過ぎないと考えると良いかもしれません。
道具無しで自分自身を見ることができますか?
人類は70億人もいるというのに、よりによって世界で一番重要だと思っている自分だけが見えないのです。
自我という手合いはせいぜいそんな程度のものだと心得ています。
そんな程度のものが殷々鬱々とどうにもならないことを延々と引きずってかつ、健全でいられると思うなら、ドラマの見過ぎです。
忘れてはいけない記憶は多分、そんなに多くはありません。
少なくとも忘れても良い記憶、忘れた方が良い記憶の方が多いと思います。
心が楽になります。
人それぞれやり方は違うと思いますが、特にこの息苦しくなってきた現代社会では情報にしても感情にしても溜めておかない術を知ることが、楽になる方法の一つではないかと思った次第です。
SD111101 碧洲齋