不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

【 聖者と盗賊 】 2

2. シロアムの池

ある日、盗賊は過ぎ越の祭りに備えてシロアムの池で水浴びをした。

シロアムの池の周りには多くの不具者がいた。シロアムの池で最初にさざ波があった時、それは天使が降りてきた時だと言われ、その最初のさざ波に触れた者の病は癒されるという伝説があった。

不具者たちはそれを信じていた。

盗賊はよく、この池の畔に日がな一日、さざ波を待ち続けている哀れな者たちに施しをしてきた。

ふいに心地よい風が盗賊にそよいだ。

ぼろぼろの包帯をした乞食が数人、うめくように石畳を這って池に向かった。

盗賊とすれ違った時、彼らのすすり泣く声が聞こえた。

盗賊は他の同業者と違って、いつも身を清めていた。

呪われるべき生業ではあっても、施しに行く家々に対して不快な思いをさせたくなかった。

また、いつ捕まってもいいように備えていた。

そしてそれは彼の手下たちにもいつも、言い聞かせていた。

「・・・シェマ、空はあのように高く、届かない。神は神の園には境を設けないことを、人の上にお示しになったのだ。神は空の代わりに地を人に与え、人が何でどこに線を引くのか、お試しになった。」

盗賊は近くで聞こえる声に驚いた。

「シェマ」とはユダヤ教のラビがシナゴークで説教をする際に言う言葉だった。

だがこの近くにはシナゴークはないはずだった。

「人は神より賜った地に剣を筆に替え線を引く、人の血で己が土に印を付ける。これで神がお怒りにならぬはずがない。」

盗賊は声の主を求め、それがすぐ近くの貧しい建物の中から聞こえるのが分かった。

「剣は鞘の中にあって誇れるものであり、血は体の中にあって肉を生かす。だが、外にあって魂を活かすものの最たるものは・・・ひとつ・・・。」

盗賊はどんな人が語っているのだろうと思い、薄汚い建物をのぞいた。

そこはシモンというパリサイ人の家で、彼は取税と金貸しで生計を立てていた。

盗賊も数回、金を盗みに入ったことがある家だった。

中にいたのは昨日のラビだった。

数人の弟子と、多くの民衆が車座になり、話を聞いていた。

驚いたことに非常に貧しい民衆までいた。

貴人を呼んだ為か、シモンは珍しく上機嫌だった。

ユダヤ教のラビがシナゴークや神殿でもなく、宮殿や大通りでもなく、このような貧しいところで民に語っていることが盗賊には驚きだった。

ラビは戸口であっけにとれている盗賊に気が付くと話を止めた。

若いラビはじっと盗賊を見た。そしてひとつうなずいてから言った。

「あなたは身を清める尊さを知っている。だが、あなたは自らの行ないだけに恥じている。」

盗賊は驚いた。

その男が自分の生業を知っているはずがなかった。

盗賊は足が震えた。

そしてふらふらとラビの前に出て、誰に言われるでもなく座り込んだ。

若いラビは言葉を続けた。

「何でも、隠されているもので現れないものはなく、秘密にされているもので明るみに出ないものはない。」

弟子の一人が座り込んだ盗賊について、ラビへいぶかしげに問い返した。

「この者は正しき行ないをせぬ者でしょうか?」

ラビは首を振り、微笑みながら答えた。

「悪を行っている者は皆光を憎む。そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとはしない。この者は光の下で沐浴し、神に喜ばれる行ないをしている。だが、よくよくあなたに言っておく。すべての罪を犯す者は罪の奴隷である。」

盗賊は恐ろしさのあまり脂汗が流れ、顔を上げることができなかった。

「顔を上げなさい。私はそれでもあなたの行ないに涙せずにはいられない。あなたの肉以外に清めるところがあれば、そのようにしなさい。」

やおら顔を上げた盗賊は、しばらく馬鹿になったみたいに口をかすかにぱくぱくさせてから、ようやく言葉を発することが出来た。

「ラビよ、私はこの世で多くの罪を着る覚悟があります。それは貧しさ、苦しさの故に罪すら犯してまで命をつなぐことが出来ない者たちに代わって、罪を着ます。」

疲れ果てたような顔をした若いラビだったが、笑うと子供のように純真な笑顔だった。

「見よ、このような時代にあっても義人は必ず存在する。この者は受けるよりは与えるほうが幸いであることを知っている。あなたは遠くない先、私と共に神の国にいるであろう。」

盗賊は目をしばたかせ、しばらくその意味を考えた。

その考えはにわかに聴衆のどよめきによって中断された。

1人の若い女が小さな石膏の壷を手にシモンの家に入ってきた。

急いだのだろう、息を切らせ、髪は乱れて、顔は涙で濡れていた。

アンナだった。

珍しく化粧をせずにいたが、乙女のように美しかった。

惜しむらくは神から呪われ、人から忌むべき生業をしていることが、人々には分かった。

周囲の聴衆はアンナを非難し始めた。

どよめきが言葉になってくると、口々に売女は去れ、というつぶやきになった。

シモンも迷惑そうに言った。

「ここは売女が来る所じゃない。さあ出て行け!迷惑だ。」

しかしアンナは大事そうに小さく白い石膏の壷を抱え、周囲の反対を押し切ってラビの前に来た。

そして過日のようにラビの前に跪き壷を置くと、アンナは涙を流しラビの足下を濡らした。

苦しさにもがく泣き声だった。

周囲の者が彼女を連れ出そうとするが、アンナはラビの足を抱えて放さなかった。

シモンはしびれを切らせて言った。

「いい加減にしないか、女!」

アンナはのろのろと離れ、涙と土で汚れたラビの足を自分の長い黒髪で拭った。

そして口づけをすると壷を持って立ち上がり、壷に入っていた香油をラビに注いだ。

芳醇な香りで注がれたものはきわめて高価なナルドの香油であることがシモンには分かった。

周囲の者たちはその香りすら嗅いだ事がなかった者ばかりだった。

アンナは泣きながらナルドの香油を注ぎ続けた。

黙っていたラビがようやく口を開いた。

「シモン,あなたに言うことがある。」

シモンはもみ手をしてにこやかに言った。

「ラビよ,どうぞ何なりとおっしゃってください。」

ラビは軽く一つうなずくと、聴衆たちを見渡してから含み聞かせるように語り出した。

「ある貸し主に二人の借り主がいた。一人は五百デナリ,もう一人は五十デナリを借りていた。彼らが返済できないので,貸し主は両方の借金を帳消しにしてやった。それで,彼らのうちどちらが貸し主を一番多く愛するだろうか。」

シモンは戸惑いながら答えた。

「多く借りた方だと思いますが・・・それが何か?」

ラビはにっこりとほほえんだ。

「そう、あなたは正しい。」

ラビはアンナの方を向いて,シモンに言った。

「あなたはこの女が目に入るか。私があなたの家に入っても,あなたは足を洗う水をくれなかったが,彼女は私の両足をその涙で濡らし,それらをその髪でぬぐった。 あなたは私に口づけしてくれなかったが,彼女は,私が入って来た時から,私の両足に口づけしてやまなかった。 あなたは私の頭に油を塗ってくれなかったが,彼女は私の両足に香油を塗った。 だから,彼女の多くある罪は許されている。彼女が多く愛したからだ。このように少ししか許されていない者は,少ししか愛さないのだ。」

アンナは声を詰まらせて呟くように小さな声で言った。

「おお、ラビ。・・・ありがとうございます。私にはもったいないお言葉です。・・・私は、あなたの足裏に口づけするほどの価値もない女です。でも、それでも・・・それでも私は愛する夫の為、地獄に堕ちてもいいのです。夫は・・・」

若いラビは娼婦の血を吐くような言葉を手で優しく制止した。そしてごく小さい、悲しそうなため息を一つつき、立ち上がると跪いているアンナの頭に手を置いた。

「女よ、今からお前は商いを止めシロアムの池で身を清めてから家に帰りなさい。途中、必ず羊の肉を一切れ買いなさい。たぶん夫は飢えているだろうから。」

聴衆たちはしわぶいた。

そしてそれが何を意味するのかひそひそと話していたが、盗賊はその瞬間、そのざわめきの中に在って何かが確実に変わったことを知った。

アンナは途方に暮れたようにラビの顔を見つめた。

「・・・ラビよ、夫はもう長いこと、粥以外口に出来ないのです。」

ラビはかすかに首を振り、微笑みかけた。

しかしその言葉は確固たる自信に満ち溢れたものだった。

「確かにあなたの言う通りである。しかし、今、お前の願いは聞き届けられたのだ。あなたの罪は既に許されている。さあ、行きなさい。」

アンナもようやく何かを感じたのだろう。涙をぬぐって、言った。

「あなたを信じます。」

女は何度もラビに跪き、足早に去っていった。

盗賊はよりどころのない視線を漂わせ、最後にラビにたどり着いた。

ラビは静かに床に置かれた石膏の壷を見つめ、小さく祈りの言葉を口にしていた。

(つづく)

SD110910 碧洲齋