昨日、息子と食事をしていると質問がありました。
「生き物はみんな、仏様なの?」
大体、この手の問いはふと出されます。
「そうだね。生き物はぜんぶ、仏様だけど、生き物でないものも全て、仏様だ。」
息子は確認するように聞いてきました。
「じゃあ、光とか音も仏様?」
「もちろんそうだ。この世の全て、宇宙全部も仏様のひとつの姿なんだ。」
息子は色々な、壮大な想いを巡らせたようでした。
「なんで仏様はそういう姿をしたりするの?」
「さあな。多分、世の中全て、違うものが織り成して作り上げているこの世の素晴らしさを、みんなに見せたいんじゃないかな。」
「違うものが一杯、世の中にあるんだね。」
「そうだね。違うものが一緒に生きていることを感じることが大事な事じゃないのかな。」
「ゴキブリとか埃も仏様?」
「そうさ、何でも仏様だ。」
「何で埃も仏様なの?」
「うん、般若心経に書いてある通り、この世には汚いものも綺麗なものもない。多分、仏様にはこの世で一番汚いものも一番綺麗なものも、同じぐらい美しく見えるんだろうね。」
「なるほど・・・」
(息子は般若心経の内容はある程度理解しています)
「だからお坊さんたちはその仏様である世の中のものをほんの少しだけお借りして、修行しているのさ。お水もご飯もなるべく少なく、感謝をして頂く、これは仏像の前でお祈りをすることよりも大事なことなんだね。」
息子は目の前の料理をしみじみと見つめていました。
「そうか、だから残しちゃいけないんだね。」
「そうさ、元々食べるためにここに持ってこられて、残してしまったら、仏様を大切にしていないことになるからね。米粒ひとつにも仏様はいるから、大事に大事に食べたいね。」
「じゃあ、エコって仏様を大事にすることなのか。」
「確かにそうだな。人間は少しだけ賢くなってきているのかな。」
何故唐突にこういう質問をするのかよく分かりません。
多分、息子の世界観の中には私が実際に修行している武芸や禅もわずかながら彼の世界を構成しているものだと思います。
私自身、仏についてエラそうなことを言える立場ではないので、いつも師が語ってくれていることを自分なりに解釈し噛み砕いて言い聞かせているに過ぎません。
ただ、それが息子の深部を形成する重要な部分であって欲しいと願っています。
SD110828 碧洲齋