不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

拳で空を切る

特定の一人ではないのですが、私の周囲に何人か、とても残念だなと思う人がいます。

私は聖者でも賢者でもないし、ひいては親切な人でもないので、その人のために祈ったり矯正するようなお節介はしようとは思いません。

残念な人たちはまずコトバで言っても分からない人たちですし、そもそもそういう意味では目や耳を持ち合わせていないことがほとんどです。

目や耳を持たぬ人たちにコトバや身振りで親切をするばかばかしさが先立ちます。

1合しか入らない容器に3合の水を入れてこぼすのは自分です。

1合には1合の水だけを入れてそれに感謝し、入らなかった2合分の恨みは己の浅はかさと取るのが筋でしょう。

昔はそういう手合いとはがっぷり四つになって、激しいバトルをしたものですが、禅を学ぶようになってからは、少し違ったアプローチをするように心がけるようにしています。

先に理想的な解法から申し上げますと、相手が空に向かって拳を突いているバカバカしさに気付いたらいいのかなと思います。

多分、最初は憎しみや恨みを込めた渾身の一撃が空を切ったら、苛立たしさでいっぱいでしょうが、それが重なるにつれて、空を突くばかばかしさに気付いてくれたら、エゴをむき出しにして相手を攻撃/口撃することで己のアイデンティティーを確立する空しさにも気付いてくれるものと思っています。

ま、相手をどう教化できるか、などということは正直私にはどうでもよいのです。

それはあくまで結果論です。

副次効果に過ぎません。

その人がそれに気付こうが気付くまいがその人の人生ですし、極論を言えば私に危害を加えない限りは関係も関心もありません。

これを成就させるには自分が無になること、空になることです。それが禅の目的の一つです。

相手の愚行ですら、言ってしまえば尊い仏のひとつの有り様です。

それに苛立ったり、激しい憎しみを感じるのなら、それは多分、私にまだ消せないエゴが残っているからでしょう。

それをいかにして修行の内に消滅し尽くすことができるのか。

禅の師、武の師、共に「修行は楽しい」と口にしていますが、相手の妄想憎念ですら、自分を計るバロメーターにするぐらいのどん欲さを持って修行に当たることが「楽しい」に繋がるのかなと、最近思うようになりました。

私はそういう残念な人たちのために祈ったりしませんが、一刻も早く自分で空に向かって拳を突く愚に気付き、元々その手は人にさしのべるものだと悟ってくれたらと思います。

SD110826 碧洲齋