不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

蜘蛛の糸に想うこと

昨日の話ですが、家族で食事をしていると、息子のすぐ前に1.2ミリほどの小さな蜘蛛が、ツツツ、と降りてきました。

息子にその蜘蛛を逃がしてやるように言いましたが、その時にふと思うところがありました。

その後、話題は当然、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」になりました。

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大泥棒で悪事を積み重ねた男、カンダタが地獄で苦しんでいるのを見たお釈迦様は、彼が生前にたった一つ行った善行、蜘蛛を殺さずに助けたことに免じて、カンダタを助けることにしました。

極楽の蓮の池から蜘蛛の糸を地獄にいるカンダタまで垂らし、登ってこられるようにしました。

いち早く点から垂れてきた糸を見つけたカンダタは、その糸をたぐり、必死に登り始めました。

あるところまで来て、一息ついたカンダタは下を見てぎょっとしました。

地獄に堕ちた他の者たちがこの細い糸に群がって登って来るではありませんか。

たまらずカンダタは叫びました。

「この糸は俺のものだ!この細い糸が切れてしまうから降りろ!」

そのとたん、糸はカンダタのすぐ上からプツリと切れて、カンダタと地獄に堕ちた者たちはまた、再び地獄に堕ちていきました。

カンダタはすでに救われていました。

カンダタはすでに仏そのものでした。

しかしそれに気付かず、自分で自分を苦しめていたカンダタに、お釈迦様は最後の機会を与えようとしました。

ところが、糸を登るにつれて、苦しみの中に埋没しかけていた自我も再び引き上げられ、他の地獄の亡者を見るに至って、カンダタは「自分」と「他人」を再び、分け隔ててしまいました。

もし彼が、下を見ずに登り切ったなら、多分彼は極楽がどこだったか悟れたことでしょう。

もし彼が、登ることだけに徹したなら、多分彼は自他を認識しなかったでしょう。

私はこのカンダタの自我の萌芽が、アダムとイブの知恵の実を食してしまったのと同じようなものに感じます。

今朝、息子にもこの話をしましたが、おぼろげながらも息子はこれを理解してくれたようでした。

私の周りにも自我を認識させるために他人を攻撃・口撃したり、罵ったり、揶揄したりする人を多く見かけますが、本来、そういう意味では自我はなく、たとえあったとしてもそのような形で認識すべきものではないと、思うのです。

私はこれを想うたびに、仏の慈悲というものの尊さをかみしめるようにしています。

SD110823 碧洲齋