不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

今年の8月15日

この日も息子と出かけました。

行き先はもちろん靖国神社

今まで何度か息子と靖国神社に来たことはありますが、8月15日に連れて行くのは初めてです。

私自身、8月15日に参拝したのは本当に久しぶりです。

やはり右翼の方が多いですね。

そして台湾独立系とか法輪功とか。

今年はやはり領土問題で韓国を非難するところが多かったようです。

大勢の右翼の方をじっくり見たのは久しぶりでしたが、色々いますね。

ほとんど一般人と変らない人もいれば、いかにもという方もいます。

主張内容も千差万別です。

嬉しいと思ったのは、少なくとも靖国神社で他人を不快にさせようというグループは見かけなかったこと。

街宣車も静かでしたし、右翼の方々もとても礼儀正しかったように思います。

時間が早かったので比較的早く参拝できました。

私のように小さい子供を連れた人、金髪のお兄ちゃん、ガン黒のお姉ちゃんもいました。

驚くほど多くの人々、驚くほどの年齢層でした。

英霊の皆様、私たちは決してあなたたちの功績は忘れませんよ。

愚劣な政治屋どもが忘れようとも、私たちは決して忘れたりしません。

私の母方の祖父は33歳の時、昭和19年サイパン島に向かった最後の援軍輸送船団の輸送船乗組員でした。

そして航空機の攻撃によって船ごと撃沈されてしまったとのことです。

祖父は子煩悩な1人の親でした。

軍国主義者でも何でもありません。

ただの下駄職人でした。

しかし、国民の大多数が戦争止む無しという時代、巨大な敵が押し寄せてきた敗戦間際に少しでも長く、家族がいる日本を守ろうとしただけです。

祖父には長女次女長男の3人の子供がいて、次女の長男が私です。

祖父が無念だったかと思うと、そうは思いません。

なぜなら今、私はアメリカをはじめ、かつては敵だった国の友人たちと深い交流を持っているからです。

私と私の一族というレベルでは間違いなく、かつての敵との共存、共栄、平和が確立されているからです。

息子にはいつもこのことを語っていますが、この代え難い平和の礎になってくれた戦争の犠牲者たちには最大限の敬意を持つように、と靖国参拝の時は特に申しつけてあります。

もちろん、一旦急あるときは、私もそして息子にも国を護持するために奉仕せねばならぬ事も言ってあります。

明治天皇教育勅語の通りです。

それ以上でもそれ以下でもありません。

ドキュメンタリーなどでよく、戦時中の学校の先生が当時の軍国主義教育について大いに反省しているのを見ますが、あれは今だから許される表現です。

まさか本気で実際交戦状態にある時に平和主義を説く人がいるでしょうか?

これは今、軍国主義を説くぐらい、ばかげています。

今の管政権のような政権ならともかく、ある程度は一般常識を備えた大人の集団が決めることです。

だいたい大きく間違えるほどのひどい選択など無いのです(少なくとも日本ではそう思います)。

全力で戦争回避を尽くし、それでもやむを得ない場合はやはり全力で戦う、私はこうありたいと思います。

何と言っても日本は専制国家ではありません。

立憲君主制国家です。

私たちが代表者を選んで、その人たちが国家の舵を取っているのです。

ヒトラーと東条首相を一緒くたにしたがる輩もいますが、その東条首相ですら、責任を取ってちゃんと退陣しています。

この意義をよくよくかみしめたいところです。

遊就館でも息子にはその雰囲気が分かればよいのです。

興味を持ったところだけ、分かりやすく説明します。

戦争の兵器を見てカッコイイと思うのは男の子の常道です。

私などはそこから戦争のなんたるかを学びました。

冷たい鉄の塊から何かを感じ、後日芽が出ればよいと、私は思います。

遊就館でおもしろい光景を見ました。

中で中国語で話している参拝客を何人も見かけました。

服のセンスも態度も品の良さも日本人と変らないところを見ると、きっと台湾人の遺族とかでしょうか。

こういう理解のある外国の方々がいることはありがたいことです。

靖国神社を後にして、私は父が空襲前まで住んでいた場所に行きました。

八丁堀駅近く、十思公園の辺りの日本橋です。

父が幕張の別荘に移住したのは、ちょうど息子の年の頃です。

息子に説明しました。

「67年前にはこの空いっぱいに、靖国神社で見たようなB-29が何百機も飛んできて、爆撃をしていたんだ。ジイジはそうなるまでここでみんなと遊んでいたんだよ。」

しかし息子には現実に爆弾を落としていった国の人たちと私が、現に仲良くなっていることの奇跡に驚いていたようにも思います。

ちょうどそこに設置してある時の鐘が鳴らされていました。

鐘は江戸時代からのもので、鐘楼は昭和の初め頃に造り直されたものでした。

鳴っているのを見たのは初めてです。

近くまで行くと、初老の紳士が、

「どうぞどうぞ」

と招いてくれました。

私は礼を言うと、ここに来た訳を話しました。

驚いたことにその老人は戦前からの在住者で、私の一族をよく知っていました。

「ああ、あの箱屋の○○さんね。そりゃエラい御曹司さんが来たもんだ。」

(少なくとも私は御曹司なんかじゃないです・笑)

近所でも有数の資産家だったようです。

「そこの昭和9年生まれの子と仲がよかったなぁ・・・」

父は昭和10年2月生まれですから同じ学年です。

それは私の父だと言うと、相手も驚きました。

そういう奇遇な縁もあるものですね。

この時期に鐘を突くのは、空襲で亡くなった人たちの鎮魂のためだそうです。

父が幼少の時も突いたことがあったそうです。

その後、町内会の用意した席を頂き、ちょっとした料理を頂きました。

本当に不思議な縁でした。

近くには父もよく手を合わせたという日蓮宗の寺があり、甘茶をかける観音様があったり、油をかける大黒様があったりします。

父はどんなことを祈っていたのでしょうか。

その後、今度は南千住で降りました。

南千住の南側、いわゆるサンヤ地区は母の実家があったところです。

駅から少々歩きましたが、石浜小学校の裏手が母の実家です。

今でも建物はありますが、誰も住んでいないようです。

しかしその2階には母が子供のころから見知っている老人が住んでいます。

当日はあいにく会えませんでした。

祖母は私が5歳の時にガンで亡くなりました。

記憶している場所もかなり変りましたが、やはりまだ、貧しい人が大勢いるような所です。

父とは正反対の生活環境に育った母でしたが、今考えても非常に素晴らしい母でした。

人の成り立ちは生活環境だけではないのだと、いつも強く感じます。

どうしても息子にここを見せたかったのですが、息子はどう感じたことでしょうか。

母がいつも言っていたことを息子に話しました。

「貧しさには二つある。モノの貧しさと心の貧しさ。一番怖いのは心の貧しさ。モノが貧しかったら誰かからもらったり買ったりできるけど、心の貧しさは自分でしか豊かにできない。だから決して、心だけは貧しくならないように気をつけたいね。」

息子も強くうなずいてくれました。

私もこの歳になって、心の貧しい人を見るたびに、我が身を戒めます。

「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」

上智大学学長ビッテル神父の言葉 靖国神社の処分に関して、連合軍から意見を求められた際に言った言葉。

今年の8月15日は非常に意義のある日でした。

SD110817 碧洲齋