愛犬が死んだから、という訳ではないのですが、命についてちょっと再考してみました。
考えているだけでは分かろうはずもなく、文字遊びをするつもりもありません。
小難しい文面では分かった気になるだけです。
一応、それなりに坐って感じたものです。
今回はちょっと自分のイメージしている命を図形で書いてみました。
あくまで私がイメージしている、というだけで、仏教や他の宗教とはあまり関係ありません。
禅は少し関係があるかも知れませんが、あくまで私の考えです。
実はこの文、最初は英語で書こうと思ったのですが、いかんせん英語はこの概念に関してはかなり曖昧で、人生も生命も命も全部「life」です。
私の英語力ごときでは、やや難解になってしまいそうです。
自然科学に関しては残念ながら英語の方が論文記述には優れていることは否めませんが、宗教や精神といった内面の描写、自然描写に関しては日本語の方が間違いなく一日の長があります。
考えたら当たり前ですね。
世界の5大宗教(仏教・基督教・回教・ヒンズー教・ユダヤ教)は全て、アジアと呼ばれる地域から発生していますから。
自然科学に関しては(元が中東から来たとしても)欧米の方が抜きん出ていますが、人の心の内面などに関しては、アジア諸国の繊細さにはかなわないような気がします。
図について。
まず誤解がないように申し上げますが、「命」とは仮に名付けた名称で、別段これが「愛」でも「仏」でも「空」でも「無」でも「神」でも何でもかまいません。
「それ」の顔や頭や背中やケツを指しているだけです。
悲しいかな、言葉に「それ」を指し示す能力がありません。
それこそ言葉の限界です。
本来、言葉は事実と双璧を成しているわけではありません。
一応、私も日本語教師として、6.7年ほど働いていましたので、禅を始めてからこれが実感できます。
そして、これらは決して独立したものではなく、地理で言うと半島のように伸びているとか、ウニの棘のように出っ張っているとか、そんなイメージです。
私はウニの棘の方が分かりやすいと思います。
命そのものは「ある」「ない」を超えた「ある」。
故に「無」という答えもまたありではないかと最近思った次第。
(この辺り、公案のような感じでしょうかね・笑)
生命だけではこの世に出現することができません。
人間が宇宙空間に出るには宇宙服を着なければいけないようなものでしょうか。
だから肉体をまとって生存します。
とりあえず赤ちゃんは社会生活ができませんから、生存が優先されます。
これが「生存」です。
そして長じるに従い、取り巻く社会が広がってきます。
誰々の子供、どこどこの学生、会社員、誰々の親、先生・・・。
こんな感じです。これらを取り巻く活動を「生活」と呼んでいます。
更にどんどん進んでいくと、会社は辞めるし、親は死にますし、全くなくなるわけではありませんが、上記の社会的関係はやや減ります。(そうでない人もいますけど)
そして死ぬ直前はやはり、裸一貫、「生存」するだけです。
そして死ぬとそれが「死命」になります。
死んでもやはり命は命なのです。
日本語にはちゃんと「生命」と「死命」という言葉が対になって用意されています。
文字通り「生命」も「死命」も「命」の種類です。
英語には「死命」の適訳は存在しないようです。
ちなみに大辞泉には「死命」は「死ぬべき命」と非常に分かりやすい解説が成されています。
これらの一巡、正確には宇宙服を着て脱ぐまでが人生と呼ばれています。
宇宙服もずっと着ているとかなり疲れるみたいですね。
この世に出現する肉体は、お祭りの屋台で売られているバナナを覆っているチョコレートのようなものです。
社会的関係はカラフルなトッピングのようなものかも知れません。
ウニの棘で言えば、海底に触れている部分が「死命」それ以外が「生命」かも知れません。
そう考えると、命などと呼ばれている概念も分かりやすいのではないかと思ったりします。
命、生命、生活、人生これらを英語で語ろうと思うと全部「life」なので、とてもややこしくなってしまうわけです。
なので、じつはみんな同じ、つながっているということになります。
どの宗教でも大体似たようなことを言っているようですが・・・。
ウニも特定の1本の棘だけ特別扱いしたら、ウニはこんがらがって動けなくなります。
ムカデやヤスデも特定の1足に囚われたら歩けなくなります。
仏にしても然り。
千手観音が千本の手を自在に使いこなせるのは自我がないから。
自我がないから千本万本の手足を宇宙いっぱいに自在に使いこなせるのだそうです。
それ故に命の有り様も調和の取れた、本来の様であるには「俺が俺が」の自我はあるべきではないのかもしれません。
(・・・と、簡単には言えますが・・・)
そう思うと、例えば「千の風になって」の歌詞などはよく理解できるような気がします。
SD110728 碧洲齋