因縁という言葉があります。
因は種で縁は取り巻く自然環境だと考えると分かりやすいと思います。
因だけでは縁はできませんし、縁だけあっても因がなければ意味がありません。
私が初めて訪れた禅寺、不動寺の住職はよく「これも仏の縁だから」とよくおっしゃいます。
確かに自分という種、因があればこそ縁があり、花が咲くというものです。
此度、私の愛犬が他界した折、多くの人の縁を感じることができました。
帰省時に預かってくれたT家とK家の皆様。
トリミングをしてくれたペットショップのお姉さん。
治療してくれた動物病院の先生。
可愛がってくれた友人一同。
お悔やみを送ってくれた世界中の友人一同。
ペットフードを買わせて頂いたビバホーム草加店。
そして最後に弔って荼毘に付して頂いた川口動物霊園の方々。
もちろん息子も。
大まかなところでもこれだけの方々のお世話になりました。
心より感謝します。
基督教には「汝隣人を愛せよ」とありますが、これは別に物理的な距離での隣ではありません。心の距離です。
本来心に距離などあるはずもない、と多分、イエス様はおっしゃいたかったのだと思います。
裏返せば、心に距離があるという錯覚を本気で信じ切っている人たちへの哀しみにも思えます。
そういう人たちは物理的な距離がどんなに近くとも、自分自身の錯覚で仏を遠ざけてしまうのではないかと思います。
(実際には仏は遠ざかりませんが)
命が尊いのは生きているからではなく、生死がセットになっているからだそうです。
生きた命、死んだ命、どちらも尊い、だから命です。
少し形を変えているだけです。だとすると、縁のある方々がエルを覚えていれば、それは形を変えてはいても、命のまま有り続けるような、そんな気がします。
今朝起きて、少し坐り、朝食を取り始めるとき、やはりまだ目でエルが元気かどうか目で探してしまいます。
今も、時折画面から目を逸らしては目で犬の様子を追ってしまいます。習慣だから仕方ありませんね。
昨夜、あまったペットフードをお世話になったトリミング店に持っていきました。
その店は先代の犬の時からお世話になっているのですが、店長のお姉さんは本当に残念がってくれました。
動物好きな人の笑顔は本当に暖かいですね。
この方の笑顔はも20年近くも見てきているはずですが、いつ見ても心が癒されます。
(正直言って好みのタイプでしたが、トリミングやペットショップ経営という仕事はかなりハードで、休日にドライブとかデートにお誘いするということは基本的に不可能なようでした。今いくつなんでしょうか?)
そして夕方にわざわざ花束まで届けてくれました。
せっかくだったので上がってもらい、仏壇に線香をあげてもらいました。
最初のエル(先代の犬名もエルで、今度のエルとは血縁関係です)のこともかなり良く覚えていました。脱帽しました。
縁という糸を縦横に織り成してできたものがこの世に浮かび上がったかりそめの存在だと師は言っていました。
そしてほつれたところがあったりすると、はっと気付いて「俺が俺が」と勘違いが始まります。
動物たちにはそういったほつれというものはないと思います。
それだけに仏に近く、純粋なのでしょう。
私もそんな仏たちに見習って、精進して参りたいと思います。
SD110724 碧洲齋