不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

ほとけのうみ

うちで12年以上飼い続けてきた犬がまもなく死にます。

我が家では私の両親が健在だったことを知っている、唯一の家族です。

昨年、動物病院で肛門の治療をして頂いた際、

「世の中ではペットは長生きして14年、15年生きるようになった、など言われていますが、平均すれば12年に足りませんから、幻想など持たずに覚悟しておいて下さい。」

と言われました。

今年に入ってからは目に見えてどんどん弱っていき、散歩する距離がどんどん短くなり、昨日ぐらいからはとうとうまともに立って歩けなくなりました。

ふさふさした白い毛がよく抜けます。

首を回して水やご飯を食べるのも一苦労です。

今日はとうとう昼休みに自宅に戻りました。

そして水を飲ませたり、漏らしたトイレシートを替えたり。

自分の食事も食べる気が失せました。

骨と皮ばかりになってしまいましたが、別に苦しそうではありません。

それをそのまま受け入れている、そんな感じです。

どんなことを考えているのか・・・

全てを見通しているようでもあり、何も考えていないようでもあり・・・

私の両親は共に早くに他界したので老後の世話というものを知りません。

せめて愛犬の老いぐらいは十分に看取ってやりたいと思います。

禅の師はいつも、仏は大海原のようなものであり、森羅万象は一つ一つの波のようなものであると言っていました。

全てが尊いのは全てが仏だからです。仏がそれをしているのです。

仏が私をしている、

仏が犬をしている、

仏が災いをしている、

仏が幸いをしている、

だから何でも尊いのです。

生き物のありようも同じです。

命は生と死を併せ持っているから尊いのです。

生も死も仏の有り様の一面です。

生が死を恐れるなら、死は生を恐れています。

そういう考えは人間の心によるものです。

本来は生死はサイコロの目のようなものだと思います。

サイコロが仏です。

師はそれらを成している仏を慈しむ行為が慈悲であり、慈悲があればこそ、この娑婆も少しはよくなるのだが・・・と言っていました。

一昨日、家族と海に行きました。

愛犬には十分な冷房対策をしていきましたが、ずっと心残りではありました。

浜辺で海を見つめては仏について考え、海水につかっては仏を感じるようにしました。

そんな折、なにげに想い付いたことを書き留めました。

たけきなみ

たおやかなるも

うなばらの

さざめきなれば

ほとけなりけり

それでも脱力感というか、喪失感はぬぐいきれませんが、ともあれ乗り越えるしかないと思いつつ、今この瞬間を全うするよう努力します。

SD110719 碧洲齋