今日は帰宅すると、中華そばを食べ、しばらく息子に遊ばせました。
そのうち犬の近くに来て、ラジコンで遊びはじめました。
やはり多少は気になっているようでした。
「昨日、エル(犬の名前)に謝ったか?」
自信なさげに曖昧に頷きました。
「本当か?」
「・・・」
「今度からは昨日のようなことは決してしないな?」
「・・・うん・・・」
「じゃあパパではなくて、お不動様に約束してくれ」
と言って、息子を仏壇の前に座らせました。
私は不動経を唱えた後、不動真言を三度唱えました。
「お不動様は何か言ったか?」
息子は何か自信なさげに首を振りました。
「じゃあ、もう三回、お不動様のおまじないを唱えるから、お不動様が何と言ったのか、ちゃんと聞くこと」
更に三回、不動真言を唱えました。
「今度は何と言っていた?」
「今度からは気を付けろよって・・・」
すると急に涙が出てきたのか、しばらく眼を拭いはじめました。
私は息子の頭をなでて「よし!」と言いました。
「お不動様の声が聞こえたと言うことは、お不動様も仏様も、エル君もお前を許してくれたと言うことだから、これ以上パパは何も言わない。お不動様の声が聞けて良かったな」
息子は少しの間だけ泣いていましたが、ようやく吹っ切れたようでした。
息子に教えたかったのはこれです。
人間に対しての許しなど、些細なことです。
完全でない人間にどうやって許しなどを請うのでしょうか。
「よし、お前を許す」
私はこういう台詞がとても嫌いです。
お不動様の声は目の前の不動尊から聞こえてくるわけがありません。
全部自分自身の内なる声そのものです。
だから息子は自分自身で心の底から反省したのです。
そしてそれに気付いたから泣いたのだと思います。
どんな宗教でも良いのですが、こういう時は宗教という機能はなかなか良くできているなと感心することしきりです。
仏教に限って言えば、神様はいません。
仏は森羅万象であり、仏が森羅万象を成しているという考えが基になっています。
だから全てが尊いので慈悲が生まれます。
息子は慈悲心に気付いたでしょうか。
教育というコトバがあります。
隣国中国ではかなり狭義の意味で使われており、学問だけができればほとんど良いことになっています。
日本ではやはり学問だけではだめなことは理解されていますが、日教組の素晴らしすぎる教育効果のお陰で学問の内容もさることながら、道徳面でも明後日の方向を向いていることがほとんどです。
私は学問ももちろん大事ですが、人として人の基を為す根幹に関する教育さえできていれば、本人が学問をしようと肉体労働をしようと全く自由だと思っています。
大学まで行って国家存亡の危機に追いやる人もいますし、たくさんお金を稼いで牢屋に入った人もいます。
道具を揃えることよりも、道具を使う人間の育成こそが真の教育、根本の教育だと思います。
だから私は息子に大学まで行って欲しいとか、良い会社に勤めて欲しいとかは全く思っていません。
人の道を真っ直ぐに歩いてもらえれば何でも良いと思っています。
今になって、裕福で学校の成績が良かった父が、他の6人の男兄弟と違って大学に進学せず自衛隊に入ったのか、分かる気がしてきました。
昭和20年代後半、父は大学に行ける十分な条件を揃えていましたが、当時保安隊から名称を変えたばかりの自衛隊に入隊しました。
理由を聞いてもはっきりとは教えてくれませんでしたが、父は実践的な人間だったように思います。
また、私は会ったことはありませんが、父方の祖父もとても立派な方だったと思います。
今、父方の祖父の形見として、唯一我が家にあるのが、掛け軸になった教育勅語です。
関東大震災の後、日本橋に家を再建して、その家の完成を記念して有名な書道家に書いてもらったそうです。
そして大学に行かず、自衛隊に入隊するような父の生き方も認めてくれました。
そこから察するに父方の祖父は非常に教育を重要視し、かつ柔軟な考えの持ち主で、皇室を深く敬い、商才に長けた人物だったと思います。
そういう祖父を持ち、そして父を持ち自分がいます。
息子にもそういうものの考え方を伝えていかねばならないと思うのでした。
今日も黒瀧山不動明王尊のお陰で、息子がまた一つ、すばらしい人間に成長致しました。
本当にありがたいことです。
【今日のロシア語】
でかした!/good job!/Молодец(maradietts)
SD110708 碧洲齋