昨夜、息子とDVDで映画「A.I.」を観ました。
これは2001年に公開、主演ハーレイ・ジョエル・オスメント君でした。
彼の主演作品でもう一つ印象的だったのは「ペイフォワード」、時間のある方はこちらもご覧になって下さい。
ストーリーは言ってみれば未来版のピノキオです。
近未来、両極の氷が融解して水面が上昇し、人類が激減。
食糧や資源なども激減してきたため、各国政府は厳しい出産制限を設けた上に食糧などの資源がいらないロボットを大量に使い始めました。
瞬く間に進化したロボット/アンドロイドは人間にとって必要不可欠な道具になるも、ある意味人間から反感を買っている部分もある、そんな社会になっていました。
(以下、ストーリーの核心が語られていますので、これから「A.I.」をご覧になりたい方は飛ばして下さい)
そんな中、あるロボット製造メーカーの社員夫婦がいました。
夫婦には息子がいるのですが、不治の病に冒され、治療法が確立するまで冷凍処置が施されていました。
会社はたまたま、最新の子供型アンドロイドを試作しました。子供がいない、死んでしまったなど、心に傷のある夫婦向けに造られたものでした。
そこでこの夫婦に目を付けた会社は子供型アンドロイド、デイヴィッドを貸し出しました。
デイヴィッドはその夫婦が両親であるように設定されました。
お母さんはしばらく癒された日々を過ごすのですが・・・
幸か不幸か冷凍処置されていた息子の治療法が確立され、息子が帰ってきました。
夫婦の愛情の対象が本物の息子に移るのを見て、デイヴィッドも一生懸命愛されるよう努力します。
が、それらがどんどん裏目に出て、結局捨てられてしまいました。
しかし、それでもデイヴィッドは諦めず、ピノキオを人間にしてくれた妖精「ブルーフェアリー」を探す旅に出ます。
その旅の途中、彼は友を得たり、困難に遭ったしました。
しかし結局、彼はブルーフェアリーに出逢うことができず、乗り物に乗ったまま海の底で2000年間の眠りにつきました。
2000年後、人類は死滅し進化した機械生命体だけが生き延び、死滅してしまった人間がどのような生き物だったのかを調査している過程で、凍り付いていた乗り物の中で動作を停止していたデイヴィッドを発見しました。
機械生命体はデイヴィッドを再起動させ、事情を聞くと、彼の望みを叶えてあげようとしました。
ただし彼らの優れた科学力を以てしても、遺体の一部から本人を再生し生存させておくことができる期間はわずか1日。
それでもデイヴィッドは再生を望み、「母」の髪の毛から母を再生してもらいました。
2000年待ってたった1日、夢が叶いました。
その日1日、お母さんは間違いなくデイヴィッドだけのものでした。
しかしその日の夜、お母さんは永遠の眠りについてしまいました。
そしてデイヴィッドも初めて、眠くなる現象を感じ、そのまま眠りにつきました。
問答無用で泣けます。
私は妻と結婚した年に観に行ったのですが、決して楽しめるストーリーでなかったので非常によく覚えていました。
ちなみにこの映画はアメリカでは振るわず赤字でしたが、日本の公開で楽々資金回収できたようです。
見終わってから息子がつぶやきました。
「あの男の子には魂はあるのかな、ないのかな」
「お前はどう思う」
「ある、あるよ。なかったら悲しいじゃないか。ないなんてありえないよ」
いつもながら息子の回答には感心させられました。
私もそうですが、息子には万物が仏の出来合と見えるようです。
仏性がたまたま、そのように形作っているだけ、だから全てが尊いといつも教えています。
挨拶という行為は世界どの国にもある習慣行為です。
欧米やそれ以外の多くの国では握手です。
ところが日本では何千年もお辞儀です。
何が違うのでしょうか。
それは・・・
「握手は人間同士でないとできない挨拶で、
お辞儀はあらゆるものにできる挨拶である。」
ということです。
独り稽古の相手の木立にお辞儀します。
道場にお辞儀します。
刀にもします。
神社仏閣でもします。
なにもないものにもお辞儀はできます。
このことから日本人は、万物に等しく魂があると信じてきたのだと思います。
人間だけが神に愛された。
人間故に神から特別の啓示を受けた。
そんなエゴまみれな考えはなかったと思います。
今の日本の苦しみは、日本古来の考え方だけでなく、欧米人の価値観も真面目に信奉せなばならないという矛盾があるが故の苦しみのようにも思います。
息子にはデイヴィッドが機械かどうかは問題ではなく、その行為の中に真実を見たのだと思います。
もしかしたらその行為もプログラムされたものかも知れません。
でもプログラムした人も多分、その製品(デイヴィッド)が本当に愛されるよう、丹精込めて造ったのだと思います。だから魂はあるのです。
息子にはそういうところがはっきりと分かるようです。
そしてそういう考え方は興行収入から見ても日本人の方が遙かに共感するところでもあります。
人間が地球を救うためにやむなく環境保護をする、という考えはそもそも日本人のものではなかったと思います。
人間は元々自然の中にいて、自然と共にあるべきもの、それが日本人古来からの思想だったように思います。
息子がもう一つ問いかけました。
「あの機械生命体の命ってなんだろう、だって進化してきているんだから部品がどんどん替わっていくんだよね?」
「エネルギーの中かな?」
元々「命」は「い」の「ち」の大和言葉が語源とされています。
「い」の方が元々の「命」とか「魂」とか、そのような意味だったと言われています。
「ち」は「力」「ち」から、の「ち」で英語で言えばパワーとかエネルギーでしょうか。
だから命は「ライフパワー」、力は「パワーからくるもの」とか、そんな感じだったようです。
息子は命はそんな安易なところにはないと首を振っていましたが、どこにあるのか、これからずっと考えていって欲しいと思います。
SD110622 碧洲齋