不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

武芸と格闘技についてつらづらと・・・

私は意識してあまり武芸についてブログに書かないのですが、先日思ったことをつらつらと。

私のHPの武芸のサイトでも明言していますが、再掲します。

「私は武芸をごく単純に定義しています。つまりいかなる制約もない戦いが「武芸」、それ以外が「格闘技」だと考えています。」

ルールや約束事が一つでもある戦いは完全にフェアプレー精神に則って戦わなければなりません。

正確に言えば試し合わねばなりません。「試合」の語源です。仮に「格闘技」と呼ぶことにします。

一方、制約のない戦いは、どちらかが死ぬまで、もしくは一歩譲って相手が負けを認めるまでです。

相手が果てるまで戦うのです。「果し合い」の語源です。仮に「武芸」と呼ぶことにします。

私は別に武芸の方がいいとか、格闘技はスポーツだとか言いたいのではありません。

私なりに四半世紀以上考えた結果、この分け方がいいと思った次第です。

もちろん他の分け方があってもいいと思いますし、それを否定するつもりもありません。

戦ったらどっちが強いなどと言う、中学生みたいな設問には答えかねます。

前提が全く違うのですから設問それ自体に意味がありません。

自分は素手、敵は10人もいて、刀や槍を持って武装している。

格闘技では検討しなくてもよい状況ですが、武芸ではこれは当たり前にあり得る状況として考えます。

(この場合は逃げるのが一番です、そして格闘技では逃げることも基本許されません)

世界的に見れば、現在では格闘技の方が遙かに多くの影響を社会に与えています。

武芸、古流など微々たるものです。稽古人口で言えば桁が1.2は違うのではないでしょうか。

理由は簡単、無原則な戦い方よりも、フェアプレーで立派に戦うことの方が意義が高くなってきたからです。

また、賞状やトロフィーの数でその人の強さが簡単に分かるのですから、分かりやすくもあります。

考えれば当たり前のことです。

どちらがいいという考え方もいかがなものでしょうか。

私には息子がいますが、柔道や空手を学ばせたいと思います。

私がやっている稽古などは気が向いたらでかまわないと思います。

格闘技の技法などについては古流と比べると非常に大きな相違が認められるほどにスポーツ化されてきてはいますが、武芸の精神をきちんと指導者が教えていれば私は高い評価をしたいと思っています。

現代では技法以上に重要なことがたくさんあります。

流派やスタイルで強い弱いという考えは完全にばかげています。

リングの上でボクシングのルールに則ったら亀田選手の方が断然強いでしょうし、高い岩の上で私に何か武器を持たせてくれたら、亀田選手は私に触れる前に殺されてしまうでしょう。

(亀田選手ごめんなさい、冗談です・笑)

強さなどと言うのもは個人個人でのレベルで、しかもそれは時と場合によって常に流転します。

流派は自分が一番便利だと思う道具や道筋です。

しかし現代の日本においては例えば武芸者としてやや劣っていても、武芸のセンスを仕事などに活かして成功というか大成している人の方が評価されます。

神業の使い手でもアルバイトというのは残念ながら少なくとも日本では高い評価は受けません。

この辺りが日本の伝統的な考えのような気がします。

私はこの考え方には賛成です。

平和な時代、人を痛めつける技だけに秀でている人が立派だとは思いたくありません。

私だって家庭がなかったら控えめに言っても今の3倍は修行に費やせます。

3倍も稽古できたらかなり違うでしょうね。

私は家庭というがんじがらめの鎖の中で稽古することに極めて高い意義を感じています。

(あ、何かの遠吠えが聞こえてきたぞぉ・・・笑)

古流を継続していく理由は、ずばり

「武技は失伝したらそれで終わり」

だからです。

一度失伝した武技は決して再生しません。

武芸古書を読んで再構成した場合、それは全く別の技です。

もっと言えば、一度廃流になってしまった流派を書物から再興した場合はその流派と前の流派は全く関係がないと言いたいと思います。

そのくらい一度失伝した武技は戻らないものです。

しかしそういう流派も実はたくさんあります。

再興した流派はよくないとか、偽物だとか言うつもりも全くありません。

そもそも古流の数は少ないし、流派の興亡など当たり前です。

再興したらしたでそこからまた積み上げて、後世に伝えればいいと思います。

(再興した方が真剣に取り組んだ、という前提ですが)

私の武友の中には一流を立てていらっしゃる方もいます。

逆にそういう方々がいなければ日本の伝統的な古流武芸が廃れていくような気もします。

私の流派の宗家が言っていたことですが、武技の継承は「書伝・口伝・体伝」によって成されるとのこと。

書き物は一番残りやすい代わりに閃いていない人が読んでもたぶん要を得ないようなものでしょう。

その点、口伝は非常に優れた方法です。

しかしながら武技そのものが続いていなかったら全く意味を成しません。

重要度で言ったら「体伝・口伝・書伝」、継承の簡易性で言ったら「書伝・口伝・体伝」でしょうか。

古流が正統だとか現代武道の方が現代にマッチしているとかいう問題は決して小さな問題ではないと思いますが、実際に修行をしている人たちがそれぞれに思えばいいことで、時と場所で相対的に変わる、そんな程度の問題ではないかと思っています。

久しぶりに武芸についてずいぶんと偉そうに書いてしまいましたが、勢いで書いたので一笑に付していただければ幸です。

SD110510 碧洲齋