不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

基督教と三浦綾子さん

高校生の時、教養として初めて聖書を読みました。

その頃から外国人との交流があったので、彼らのものの考え方を知るためにも聖書は有効と考えたのです。

洋画をよくご覧になる方は分かると思いますが、映画でも良く聖書の引用がなされます。

以後、4.5年に1度は旧約新約併せて始めから終わりまで読むように心がけています。

基督教に関する作家として、私は遠藤周作氏と三浦綾子さんを挙げることができます。

この二人の作品はよく読みました。

個人的には私の基督教観は遠藤周作氏に近いものだと思います。

奇跡や神秘といったものを排除した、生々しいイエスと基督教が私には最も現実的で確かなものに感じました。

一方で端的でひたむきに神を信じ、それでいて優しい文体の三浦綾子さんの作品は、留学時代から友人に借りて読みました。帰国後、読んでいなかった残りの作品もほとんど網羅しました。

個人的には私は奇跡とか神秘は信じないし期待もしません。

白い服を着て白い髭を生やして杖を持った、優しそうなおじいさんが神様だったら、ある意味がっかりです。

それでも三浦綾子さんの基督教に対するひたむきな姿勢には心打たれました。

三浦綾子さんは1999年10月12日に亡くなりましたが、私の母もその約1ヶ月後に他界しました。

そのためにとても良く印象に残っています。

有名人で亡くなった人の中では五指に入るぐらい心が痛みました。

現在は三浦綾子さんのご主人、三浦光世さんが活動されていますが、機会があったらぜひ一度、講演などを聴いてみたいです。

三浦綾子さんの作品には素晴らしい言葉が多くありましたが、今でもよく復唱する言葉があります。

何の作品だったか覚えていないのですが、私は非常に感動し、心に刻みつけています。

「人は10のうち9を他人に助けられても、助けなかった残り1に対して不平を言う」

10のうち1しかしてくれなくとも、感謝をする。

10のうち9をしても不平を言う。

何かに居着いている人、エゴを手放せない人は10のうち9をしてあげても不平不満が絶えません。

自分の立場、自分の感情から離れることができません。

私はそういう人が多くいることに深い悲しみを覚えます。

私の知っている人にもそういう人が少なからずいます。

そういう方々の名誉のために言っておきますが、悪人は一人もいません。

皆よい人だと思います。ただ、自我を捨てられないが故に、いつも、不平不満に苛まれているのだと思います。

多分、言っている本人たちも苦しいのかも知れません。

それに快感を感じている人がいたとしたら、山上垂訓の如く、それこそ神が手をさしのべる領域です。

山上の垂訓その1とは

「心の貧しき者は幸いなり。天の御国はその人のものなればなり。」です。

神様は心の豊かさを求めて苦しみあえいでいる人々のためにある、ということでしょうか。

エゴという幻想の浮き輪にしゃかりきになってしがみつき、

それを手放すまいと狂気の海で暴れている人には、

まず浮き輪を放させ、空を見上げさせ、満天の星空があるを知らせる慈悲を持つべきだと思っています。

自分がいるという錯覚が溺死という恐怖を幻想させます。

世界には空があり星があり海があるだけです。私はそんな風に思っています。

私は結婚してからも他人に感謝の気持ちというものが薄かった気がします。

30代で父母を亡くし、子供が生まれ、幾度かの転職、鬱病になる一歩手前になってようやく、他人への感謝の真理が、おぼろげに分かってきた気がします。

ま、それは私には過ぎた師たち、素晴らしすぎる友人たちが多くいるからでしょう。

そういう人たちを思い返すたびに小遣いをもらって、厚くなった財布を見て喜ぶ子供のような満足感と笑みを覚えます。

天恵というコトバはたぶん、このようなことを指すのでしょうか。

私の努力や修行程度で人の性情が変わったとしたら世の中は本当に甘くできていると言えますね。

ということで今日も皆様に感謝しつつ生きます。

SD110510 碧洲齋