不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

いじめのこと(2)

前の学校は団地の中だったので、学校の生徒たちは非常に仲がよく、ワルガキっぽい子供も少なかったように思います。

引っ越してきた先は同じ市内ですが普通の住宅街、市内ではややガラが悪いところだったと思います。

転入生がいじめられるのはいわば定石です。

転入してきてまず、プールサイドで見学していたところにいきなり背後からその学校の番長と手下、3人がかりで暴力を振られました。

それ以外、クラスメートとは概ね良好な関係でしたが、番長の機嫌が悪いとまずいじめに遭うのは私でした。

言うまでもなく万事慎重とならざるを得ませんでした。

何せ今まで番長なるものはテレビでしか見たことがなかったので、これは本当に怖かった。

体力的にも全然弱いことは十分に自覚があった、インドア派少年でしたから余計でした。

5年生。途中まで普通でしたが、いつの頃からか担任を、特に女子が嫌うようになり、いわゆるボイコットが頻発しました。

私は別段、その先生に対しては可も不可もなく、周囲に従っていましたが、そのうち正義の心4割とめんどくささが6割で参加しなくなりました。

数回は見逃されていた気がしますが、そのうち目を付けられるようになり、攻撃の対象が私になりました。

記憶にない程の嫌がらせでしたが、記憶にないのは多分その後の6年生の時が過激すぎたからだと思います。

特にこの時、女は怖いと思うことがありました。

女子たちは担任(男性)を毛嫌いして、徹底的に授業妨害やコミュニケーションの阻害をしていました。

卒業式の時に女子たちは皆、去年の担任の前で泣きながら「先生ごめんなさい」とドラマさながらに謝っていました。女の涙の魔力というのは本当に怖いと思ったものでした。

6年生の時です。

多分2学期の初めとか、そんな頃だと思います。

何かの話をしていたときに「未来にこんなものがあったらいいね」というような他愛のない話を番長格及びその腰巾着としていたのですが、数日後、何故かそれが私がそれを作ったことがある、と言う話に変わって毎日毎時間その追求を受けたり、揶揄非難中傷と息つく暇もありませんでした。

「そんなの知らない」と言えば良かったのでしょうが、あまりの苛烈さに、やったと言えば多少は風当たりも弱くなるだろうと思い、うやむやに答えていました。

多分、えん罪で警察の取り調べを受けた人の心境はこんな感じだったと思います。

6年生ともなると力もあるので時々暴力も振られました。

登校拒否の一歩手前だった気がします。

指折り数えて卒業式を待ち望んでいたような感じでした。

そこでも私は人間の最も賤しい部分を見ました。

当時「機動戦士ガンダム」が大ブームで、皆、プラモデルをこぞって買っていました。

今だったら爽やかなサッカー少年とかでもガンプラに熱中していました。

私は幼少の頃からプラモデルが好きで、そこそこの腕前でした。

学校でいじめに参加していたり、遠巻きにしていたクラスメートが人目を忍んで私の家に来て、作り方の指南を乞うたり、仲良く遊んだりしました。

嬉しかった反面、「ああ、人間ってこんな卑屈な生き物なんだな」とも思ったものでした。

今でも風見鶏、風が吹けばどこにでもなびくような人には好感が持てません。

私は人に媚びることを恥ずかしいと思いますし、決してしてきていないつもりです。

多分、子供の頃に人間に賤しい部分を見て、嫌悪感を持ったからだと思います。

語弊がありますが、信念があればまだ悪事に手を染めている人の方がよほど信が置けます。

まあ、考えようによってはそういう人が世の中の大半を占めているんだな、とも思いました。

ともあれ小学校の卒業式を迎え、少なくとも今よりはずっとマシな学校生活が来るだろうとほっとしたことを今でもよく覚えています。

SD110531 碧洲齋