傀儡師
首に掛けたる
人形箱
仏出そうと
鬼を出そうと
一休 宗純
昨日の長いだけで相当つまらないブログを反省しつつ、端的に言うと、この一休さんの詠んだ詩になります。
この詩は師が提唱で仏性について説明するとき、好んで使う詩です。
さすが一休さんが創っただけあって、とても分かりやすいです。
傀儡師とは正月とかの祝祭日に家々を回って人形劇を見せる人です。
戦争などで勝った国の言いなりになる負けた国の政府をよく「傀儡政権」と言いますが、傀儡師が語源のようです。
「かいらい」と呼びますが、昔は「くぐつ」だったそうです。
民衆にはこのような娯楽がずいぶんと栄えていたようです。
さて、傀儡師は劇上で、場面に応じて様々な人形を首に掛けた人形箱から自由自在に取り出します。
傀儡師にしてみれば、仏も鬼も何の違いもなく取り出されるものです。
観衆は勧善懲悪を楽しむため、
傀儡師は喜んでもらうため、
人形作り師は使ってもらうため、
ただそれだけのことです。
振り返って私たちは
笑ったり怒ったり、
喜んだり悲しんだり、
毀誉褒貶に一喜一憂したり、
やれ我が正しいの彼が正しくないの、
善だ悪だと、
心が安まるヒマもありません。
しかしそれらは皆、傀儡師が取り出す人形のようなものです。
問題は人形たちではなく、人形を取り出しては操っている傀儡師を知ることです。
そこを知ることによって、二択問題公式の弊害を知ることができると思うのです。
あ、ちなみに二択問題公式が良いか悪いかという分別もよくありませんのでご注意を(笑)。
「分別」「無分別」という言葉がありますが、もともとこれは仏教用語でした。
今では前者が良くて後者が悪い典型ですが、もともとは逆で、
二択問題の根本が「無分別」で、二托に分化してしまうところが「分別」。
つまり生老病死などの問題を発生させてしまう根源が「分別」なのだそうです。
分別しているそれ、そのものを識る。この辺りが何とも難しいところではあります。
SD110427 碧洲齋