不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

禅における輪廻転生の考え方

物質的にどん詰まりになってきた世相があります。

スピリチュアル系とか占い系とか、人智を越えたものがはやっています。

私的には周囲や友人にもそういうのが好きな人がいるので、まあおもしろいと思いつつ、基本的には以前に増して関心を持たなくなりました。

師がよく述べている事の一つを紹介したいと思います。

ずばり輪廻転生について

「そんなものはありません」

ただそれだけです。

ま、それでは紹介にならないので・・・

「来世がある/来世がない」というシロモノは、純粋にイメージでしかなく、今生きているあなたの脳中にしか存在しません。

「死」という現象はあなたの肉体はもちろんのこと、あなたのその想いごと、ごっそり取り払ってしまいます。

だから来世がある、ないという二者択一の間違った答えは、間違った設問の前提にあるのです。

つまり考えてみても始まらないのです。

死は一方通行なので、行った(逝った)人があちらでどうなっているのか、死んでいないあなたには全く関係ありません。

死だけではありませんが、自分の死を知ることはそもそもできないですし、意味がないのです。あなたにできることは文字通り死ぬという行為だけです。

死後の世界は善男善女が極楽でナンチャラというのはコトバ遊びでしかありません。

一歩下がって、仮にあったとしても、来世のあなたには全く関係がありません。

そういうと身も蓋もないので、自分の愛車を中古車として売りに出すようなものと考えればいいかもしれません。

せいぜい次に買う方のことを考えて、恥じないような処世が良いのかも知れません。

しかしそれは現世において、誰もがそうしたいと想っていることなので、結局、来世がどうであろうと関係なく、よき処世を全うしたいわけです。

前世を知ったところでもあなたには全く関係がありません。

前世が極悪非道の大悪人であったとしても、転生したのだったら今の自分にベストを尽くす以上のことはできないからです。

そしてそれは別に前世がブッダであっても同じだからです。

だから前世が何であっても結局関係がないのです。

(ま、前世が犬だったら、今生の人間世界を楽しむのはありかな?)

だいたい前世が聖者だったら今生は悪いことをしてもカードゲームみたいに貯金が残るのでしょうか?

さて、前世が悪党だったから今の世は全行を積まねばならない、とか、来世はよりよい人間になりたいから今生で全行を尽くすとか言う考え方は全然間違っています。

お金で女性と関係を持つというビジネスは私も興味があるところですが、お金もさることながらマイナスイメージや健康的被害の可能性を考慮すると、私の道徳観念を抜きに考えてもとても手が出ませぬ(笑)。

結局、前世/来世という考えも同じです。

前世ために今生を、来世のために今生を、という発想がよくないのです。

今生きている所以は今この瞬間のためだけにあります。

今この瞬間は今この瞬間のためだけにあります。

先送りしたり、前送りしたりしたら、鮮度がぐっと落ちてしまいます。

今生は本来、今生のために存在しています。

これは別段、前世や来世に限ったことではなく、神様に対する姿勢についても同じ事が言えます。

お祈りしたからイイコトしてください。

こういう契約は神様も嫌うところです。

これはキリスト教でも同じです。

右のほほを打たれたら左のほほを差し出せ、これはたぶんお祈りしたら神様からイイコトを期待している人への警鐘でしょう。

また、私の好きな言葉ですが

己を愛する者を愛したからとて、どれほどの価値があろうか、そのようなことは罪人でもしている

バーター、取引前提の愛は断じて偽物で、真実の愛などではないっ!(って、ちょっとカッコイイことを言ってみる)。

お釈迦様は実際、死後の世界や世界の終わりとかに関しての問いは無視しています。

考えても意味がないのです。

今この瞬間を懸命に生きている人はたぶん、そういう問いを発しないとお考えだったのかも知れません。

輪廻転生について、全く言及していないわけでもありません。

それは例えば死に対してビクついている人や来世を信じないで悪いことばかりしている人には方便で輪廻転生を説いているようです。

しかしそれ以上のモノではありえません。

・・・とまあ、これが一般的に禅における輪廻転生に関する考え方です。

言い回しやたとえ話は私の創作ですが。

SD110411 碧洲齋