不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

たまにはマジメな世界情勢とか

ここ最近の世界中の動きを俯瞰するに、やはりインターネットの力が大きいように感じます。

中東にせよ北朝鮮にせよ中国にせよ、今までうまくいってきた独裁政治ですが、ここにきてインターネットをはじめとするIT技術によって、民衆が今まで知ることができなかったことも容易に知ることができるようになってきたため、不満が膨張し、今になって爆発の様

相を示しているように思います。

日本人はあまり意識しませんが(誰ぞがそうさせたのでしょうか・・・)、歴史の教科書には第二次世界大戦後、アフリカや東南アジア、南アメリカで雨後の竹の子のごとく独立国が増えた理由の一端はやはり、東洋の小さな島国が白人に反旗を翻し、もともと勝てる見込みすら低かったのに自分たちの主義を主張したというところは小さくないようです。征服者たる白人たちに対して楯突くなど、征服されて数世代も経た植民地住民には全く夢にも思わない発想でしたが、白人以外の国が白人に対して戦いを挑んだという事実はかなり衝撃的でした。・・・と、これは留学時、友人だったケニアの留学生がしみじみ言っていたことです。

動物の赤子は目を開いて最初に見えた生き物を親として認識するそうですが、独裁政権下で目をふさがれていた民衆が目を開いて最初に目に飛び込んでくるのは何でしょうか。欧米流の生き方なのか、日本のようなあり方なのか。私は正直欧米のやり方が21世紀的とはとても思えません。

今はどこもかしこもエゴだらけです。ネットで知ってしまった地球の裏側で優雅に暮らしている金持ち、戦場でもてはやされているヒーロー、聞いたこともないような貧しい国で苦しんでいる人々、エゴでエゴを洗うような社会。つまり自他を比較することによって、そのコントラストを以て「己」を認識することが非常に多くなってきています。

いくら他を羨んでも妬んでも、その対象になれるわけではありません。自分にできることは自分であり尽くすことだけです。他を羨んだり妬むのは生来生まれついた自分であり尽くしていない証拠です。

ちょっと汚いたとえ話で恐縮ですが、ロシアの友人に話したたとえ話が非常にウケたのであえて使わせてもらいます。

私たちは論理的には世界中のすべての人のケツの穴を見て、臭いを嗅ぐことができます。そして世界中の人間で唯一嗅ぐことができないケツの穴こそ自分のそれです。直接的でない経験則から「たぶんそこはクサイ」と想像するだけです。なにせ直接臭いを嗅ぐことはもちろん、直接見ることはできないのですから。自分のケツの穴にできることは唯一、「それを使い尽くす」ことだけです。見たり嗅いだり、きれい汚いの批評を自ら下すことができません。全うに使い尽くすことしかできないのです。使い尽くすことが本分なのに、たくさんの人のケツの穴を見てしまうと、その本分を忘れてしまいます。それが現代人のあり方のような気がします。

中国にしろ北朝鮮にしろ、やはり締め付けている国はいつかその縄は断ち切られる運命にあります。切っては結び切っては結ぶのが世の常です。切られれば束ねた材木は我が方に倒れてくるかもしれません。たとえばネット上で中国や北朝鮮の崩壊を対岸の岸のようにおもしろがっている輩などは見ていて情けなくなります。日本は情報に制限を加えられることはほとんどありません(全然ないというわけではないですが、制限を全くしていない国家もまたちょっと恐ろしいですが)。が、マスコミが「ウケる」か「ウケない」かで情報を取捨選択し、結果(日夜教育レベルも落ちつつある)国民がそれを見ているのです。これでは日本人の思考能力や認識能力が誉れ高い訳がありません。自戒したいところです。

実際にその国の人たちと会ったり話したり、その国に行ったりしないと分からないことも多いのです。インターネット上の情報はゼロと1が織りなしている鮮やかな幻想、錯覚だと思えば多少は正気を保っていられると思います。

私は絶対平和主義者でも戦争賛美者でもありません。いい加減で矛盾がひどすぎる平和ならない方がいいですし、適当でいい加減な戦争なら絶対に反対です。大多数が平和を享受しているのであれば、享受していない少数のために社会に尽くしたいと思いますし、理不尽な理由で祖国に攻めてきた敵に対しては、たとえ負けると分かっていても命を投げ出す覚悟でいます。とりあえず今はかろうじて前者ですな(笑)。ただ最近は後者の方も覚悟しておかねばならないのかなと頭をよぎったので、こんな事を書いた次第です。

SD110224 碧洲齋