不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

清掃のこと

この記事は後日、私のサイト「文武之間 不動庵」英語サイトにて英語で掲載するための下書きです。

英文ではもっと分かりやすくかみ砕いて書き下ろしますが、ともあれ覚え書きという程度でご了承ください。

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「道場稽古」とは日本語ではやや蔑視された言い方でもあります。

つまり道場だけの稽古、というのは修行の重要な部分とはいえ、それだけでは成し得ないということを言い表しています。

ましてや相手と組んで技の繰り返しをする時間だけが稽古だと勘違いする人は、武芸者としての修行は辞めた方がいいと思います。

日本の武芸において稽古とは「古(いにしえ)を稽(かんが)える」という言葉が由来で、先人たちの行いを省みて修行することを指します。

故に特定流派に所属しながら技の修練だけ、体の鍛練だけ、と思う人はもう一度先輩や師を見据えて稽古することをお勧めします。

どこにも所属していない人もまた、師事したことのある人を顧みる必要があると思います。自分だけの力で強くなった人などいないのですから。

日本では日常における代表的な修行の一つに「清掃」が上げられます。

仏教寺院や神道神社は言うに及ばず、新興宗教や一般の会社、保育園から学校に至るまで、「清掃」は決して経費を惜しむための雑務ではなく、一つの立派な教育、修行行為として認識されています。

日本では2.3歳の幼児の時から保育園を先生と一緒に清掃をし、少なくとも高校卒業までそれは継続します。

会社に入っても、社員自らの手で清掃をするところも少なくありません。

特に社員教育に熱心な企業は社長自ら率先して清掃することも珍しくありません。

そしてそれは日本では社会的にかなり尊敬される行為でもあります。

従って道場でも然り。稽古の後には必ずといってよいほど道場を掃き清めます。

特に上級者ほど清掃をないがしろにする人は尊敬に値しないと見なされます。

欧米では公共施設は掃除人が行うことになっており、清掃そのものは教育や修行の範疇と見なされないことが多いようです。

実際、たとえば床ふきの場合、アメリカなどでは足でぞうきんを拭くこともよくあります。

しかし日本では少なくとも床であっても足で清掃をするようなことはかなりのタブーであり、非常識のそしりを受けます。

その昔は膝を折ってぞうきんで床ふきをしましたし、現代でも少なくともモップなどを使って手で行います。足は決して使いません。

「清掃」は「汚れ」ではないのです。日本において「清掃」は「美化」への行為、修行であるがため足などで行ってはならない行為なのです。

故に日本では清掃をさげすむ行為はもちろんのこと、足で横着に清掃をすることはかなり品位を落とす行為です。

清掃にどんな意味を求めるのでしょうか?

その場を使っていることを如実に感じられる行為はやはり「清掃」です。汚れると言うことは確かにその場を使っているという証拠他なりません。従って清掃をすると言うことはその場を使ったという感謝を表します。刀でも使った後は手入れをするのと同じでしょう。

また清掃をすることによって、次回の使用をより心地よくするための準備でもあります。戦いは準備8割だと師がよく言います。準備がよくできている人には心にゆとりができ、相手に先んじてものを見、動くことができ、それが勝機を制するのだと言うことでした。

清掃そのものも立派な修行です。注意力が散漫だったり、手抜きをする人は戦いでもそれが現れます。部屋の隅、わずかな埃も見落とさない注意力の持ち主は、戦いにおいても機を制し、勝機を見出しやすいと言えます。

禅的には清掃は「自分」と「対象」を消し去り、清掃という「行為」そのものになることによって無の境地を得ます。般若心経にも記載がありますが「不垢不浄」です。だから雑念を浮かべたまま清掃をしていても意味がありません。清掃は「自我」を消し去り「無心」になるために清掃をすると考えてください。

実際、出稽古に来た外国人門下生でも清掃に全く参加しない人をよく、大勢見かけます。

嘆かわしいことにはかなりの高段者でもそのような人をよく見かけると言うことです。

驚くことに、私の師ですら清掃をしている横で、平気でまだ技の掛け合いをしている高段者がよくいることです。

彼らはどういうつもりでそれをしているのか分かりませんが、本来道場であってはならないケースです。

もっともそのような輩は概して人間的にも武技的にもとうてい優れた武芸者ではありません。

私は断言します。清掃に参加するしないは文化の差異以上のことです。

武芸の稽古とは24時間365日です。

思い立ったときが即稽古です。いや、武芸者はいつでもどこでも思い立った状態でなければなりません。

従って畳の上で組み合ったときだけに意識がある人は、武芸に対する意識がきわめて低いと言えます。

私はその辺りが武芸者と格闘技家の違いではないかと思っています。

(決して格闘技家を蔑視しているのではありません。たとえばボクシングなどは決まった相手と決まった場所、決まった時間に決まったルールの下だけでしか戦うことが許されていません。しかし武芸者はいつ、どこ、誰とも分からぬ戦いに身を挺する覚悟がある者を指しています)

もしあなたが正真の意味において武芸の道を歩むのであれば、森羅万象があなたにとって修行であり、道場であり、師匠であることをぜひ心に留め置き、武芸に精進すれば、より日本の心を理解できるでしょう。

SD110222 碧洲齋