不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

祖母と英語

私の母方の祖母は私が5歳の時に58歳で他界しました。奇しくも私の母も同じ58歳で他界しました。祖母の記憶はおぼろげでしかありませんが、母から繰り返し戦中戦後の苦労話を聞いてきたので、とても尊敬しています。

その中で非常に興味を持ったエピソードを紹介したいと思います。

祖母が亡くなる1.2ヶ月前のことだと聞いています。

突然、病床の祖母は母にノートと鉛筆、それにアルファベットの本を買ってくるように言いました。祖母曰く「これからは世界中の人たちと話せるようにしなきゃいけない。世界中の人たちと話し合えれば戦争も減る。」でした。そして本当にアルファベットから勉強したとのことです。ほんの短い間でしたが・・・。

私は良く思い返すのです。祖母の夫は米軍の攻撃によって殺されたのです。そしてそのため4人の子供を女手1つで育てて行かなくてはなりませんでした。そしてやっと子供たちが手を離れたと思ったらガンになりました。戦争が彼女の人生を大きく狂わせたことは間違いありません。たった30年前に夫を殺した米軍が憎くなかったのでしょうか?それでも英語を学びたかったのでしょうか?私はしばらくこの問題を自問自答し続けてきました。

結婚して子供ができて、しばらくしてから分かってきたように思います。祖母はいつも未来を、子供たちがこれから行くべき未来を見ていたのだと思います。どこかの国のように振り返って恨み辛みを言う程、余裕はなかったのだと思います。未来を信じて必死に今を生きていたのだと思います。私なんか妻と2人で1人の息子を育てるのにも四苦八苦しています。祖母の苦労たるや想像を絶します。でもその中で未来を見ていたのだと思います。

実は母も英会話学校に通っていました。私が豪州でホストファミリーという、第二の家族を持ってから、英語を真剣に学びたいと思ったようです。結局、母も通い始めて2.3年後に他界しました。そして私は16歳から世界中の武友たちと交流を持ってから四半世紀になろうとしています。祖母の夢は私で実ったのだと思います。今の世相は無論、祖母が夢見ていたものとはかけ離れてはいますが、少なくとも日本は既に世界にあって不可欠な国であり、世界的に見ても敬意を払われている国の1つです。私が色々英語で発信している理由は祖母や母が世界の人たちと語り合えるように、との願いがあったからです。私は英語で日本人のものの考え方を発信することが多少なりとも世界を良くしていこうとする力になりうると信じています。

息子はすでに物心が付く前から外国人に接しています。3歳でサイパン島(奇しくも祖父が戦没したのもサイパン島近海です)ですが、仕事で行っていた妻と1年間過ごしました。多分息子はこれから普通の日本人以上に外国人と接するでしょう。その時、英語がうまいとかではなく、息子の曾祖父母、祖父母そして父母が持っている日本の何かを世界の平和のために発信して役立ててほしいと思っています。どんな形であれ、これから外国人と接しなくて生きることが難しくなってきます。どんな言語であれ、それを使って日本人の何たるかを広めていって欲しいと強く願っています。もちろん我が息子だけではありません。これから大きくなる子供たち皆が、日本人であることがどういう事なのか、日本人は何をしなくてはならないのか、よくよく考えて行動すればきっと世界はもう少し住みやすくなるのではないかと思っています。

SD110102 碧洲齋