利休道歌 十四
規矩作法 守りつくして 破るとも
離るるとても 本を忘るな
武芸でも似たような言葉があります。いわゆる「守破離」です。上の句も同じ漢字を使っていますね。流派によって色々な解釈がされていますが、大きな違いはないように思います。
私は例えで示したいと思います。
梵鐘を造るとします。
よい音色を出す梵鐘を製造するには考え抜かれた正しい型が必要です。
鋳込だ青銅が型の中で固まったら正しい時期に型を壊し梵鐘を取り出します。
そして鐘楼に吊されて見事に打ち鳴らされます。
私は守破離をこのように解釈しています。
梵鐘を造るにしても正しい型作り、正しい青銅の鋳込み方、正しい型の壊し方、型の壊す時期、仕上げ方、吊し方、どれかが一つ欠けてもよい音色は出ません。そして最も重要なのが美しい音色は誰が為か。
ものの製造でも人の生涯でも同じような時期は巡ってくるように思います。
従って正しい守、正しい破、正しい離も立派な武芸者を造るためだと心得ています。
句にもありますが、「本」を忘れてはいけません。
「本」は人によって違って然るべきですが、例えば武芸なら復讐のためとか野心や欲望のためとか利益のためなどに用いるのはあたかも梵鐘を悪事に用いるようなものです。少なくとも他人を害するための武芸は身を滅ぼすこと必定です。守破離、いずれの段階でも何が為に苦しい修行をしているのか、何度でも思い返して欲しいところです。
この句は利休百首最後の句で、実際は102番目に当たります。
完全に型に従って点前をすべき茶道の最後の句がこれです。
私はこの辺りに茶道の奥義があるように思います。
禅的に言えば守るとか守らないとかではない、相対的なものではあり得ない、別の部分こそ重要な気がします。
ただそれには長く厳しい稽古を積み重ねてきた人だけが至ることができます。
私はいつもそのようなことを思いつつ、稽古を続けています。
結び
私は武芸と禅をほんの少しばかりかじってはいますが、茶道に関しては全く素人です。妻が茶道を始めたのを機に、興味を持ち、その折、この利休百首を思いだした次第です。故にこれらは全て私の独断と偏見で書かれたもの故、その道の方よりご覧になって思うところがございましたら、粗野な武芸者の戯言と一笑に付して下されば幸いです。
英文も概ね日本文を翻訳したものですが、素人に毛が生えたような稚拙な訳出に我ながら恥じつつ、この誇るべき和文化を少しでも世界に知らしめたいという一心でしたためた次第です。折りあらば再度校正を加え再掲したい所存です。どうかその道の方々にはこの熱意を以て稚拙な訳出をお許し頂ければと思います。
また、時折、宅で点前を立て、茶道を以て武芸や禅に関するよきヒントを与えてくれた妻にも深く感謝をしたいと思います。
SD101222 碧洲齋