不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

利休道歌 十三

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目にも見よ 耳にもふれよ香を嗅ぎて ことを問いつつ よく合点せよ 茶の湯をば 心に染めて眼にかけず 耳をひそめて きくこともなし 本来、この句の順列は逆なのですが、私的にこちらの方がしっくり来るので敢えて逆にしました。 最初の句は見て聞いて嗅いでよく考え尽くして納得せよと言うことで、次の句では茶道とは見ても聞いても分かりません、ただ心で体得せよ、ということだと思います。 入門者はまず先輩から手ほどきを受け、見よう見まねで動き、やがてその理合について考え、経験と理論が合致したところで納得します。(もちろん、合致した後の稽古もあります)私は最初の句は入門者向けではないかと解釈します。ただし上級者の戒めとしても非常に有効です。 次の句は何でもかんでも目と耳の奴隷になったままの修行者には有効でしょう。熟練者は目や耳にさえ囚われてはいけないわけですから。 目や耳というのはある意味不自由です。なにせ見たものしか見えず、聞こえたものしか聞けないからです。五感は全て感じたものしか感じられないようになっています。五感で捉えられないものは「ない」のか「ある」のか。それこそ本当に書籍や伝聞で分かろうはずがありません。 禅では悟りというものはその五感の外側、もしくは根っこにあるとされています。だから悟りは五感では得られません。科学者からしてみればかなり馬鹿げたことかも知れませんが、人間が何千年も続けているところを見ると、やはり何かあるのでしょう。私の経験則からしても五感以外で得られた感覚は確かにありますが、言葉で言い表すのは難しいように思います。 現代は様々な情報が溢れかえっています。一説では江戸時代の70歳の老人が知っている情報量と現代の3歳児が知っている情報量はほぼ同じなのだとか。確かにインターネットが普及してからの人間の情報量は狂気的とも言えます。 どんなにデータが増えても人間が処理(理解)できる量は変わりません。人は情報の洪水に飲み込まれないようにするために自ら考えることをやめ、他人が考えたことをそのまま用いてしまうという安逸さに陥ります。私はいつもその点を恐れます。故に人間がすべきは自ら理解、処理すべき問題の把握とそうでない問題をどこに預けるかという問題です。 何かの言葉ではありませんが、人が生きていくには本当はそんなに多くのものは必要ない、の通り、普通に生きるに当たって必要な情報は何なのか、ということを思い巡らすことは現代社会においてかなり重要ではないかと思います。 翻って武芸に照らし合わせても同じ事が言えます。インターネットの普及で、以前なら知らなかったことが容易に知ることができるようになりました。知的興味という点ではいいと思います。しかし武芸の修行、研究に必要なものとそうでないものが峻別できなくなったら、武芸者としては赤信号が点滅するのだと思います。武芸トリビアばかり飾り立てて、根本の部分とじっくり向き合えていなかったら武芸者としては大いに問題ありです。私はいつもこの点を憂いています。武芸を精進するに当たっては、時代や本人のニーズにもよると思いますが、そんなに多くは必要ないと思っています。少なくとも私の場合はそうです。 お茶の話に戻します。 茶道であればもてなしは心あっての所作、道具であり、心ない所作や道具は優れていてもいかがなものかと思います。もちろん、逆に言えば優れた所作や道具はもてなしの心あってのものだと解釈できるよう、両の句を味わい尽くしたいところです。 SD101222 碧洲齋