不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

受のこと

私は所属する道場ではとうとう3番目の古参になってしまっています。

したがって上二人の兄弟子がいないときは、受の一番手を仰せつかります。

当流では毎回違うことをするので、受は全く知らない技をかけられるわけです。

それ故にある程度ベテランでないと本当に危険この上ない役目でもあります。

その辺り、先生もよくわきまえてはいるものの、やはり海外から来た高段者先生で生徒を大勢連れて来ている手前だったり、私よりも腕が立つ門下だったりする場合などは当然、私の出番は後になります。

順番に関しては色々先生も考えているようです。うまい人を予め見られるのはとても参考になります。

まあ、海外からも門下生には自分の権威を自分の生徒たちに見せびらかしたい人や、周囲が見えないKY君、後先が見えない盲目君がいたりして、ちょっと困ってしまうこともあります。

私的には海外からわざわざやってきてくれたので、怪我をさせないように古参が予め見せるという手順を踏みたいのですけどね。

古株ですが兄弟子二人よりも若いこともあって、最初に受を仰せつかると結構キツくかけられることがよくあります。

先生は同じ技でも技量に合わせてきつくかけたりゆるくしたりしていますが、高段者にはきつめにかけることが多いようです。

それで一番最初というのはこれでなかなか、今でも時々怖いものがあります。

とはいえそれは先生が私の技量を信用していると言うことでもあり、励みにもなります。

受、武芸を知らない方のために簡単に言うと、要するに先生が本日稽古をする技をするに当たって、やられ役というものです。

私は受をする、受になる門下には必ず何度も言って聞かせることがあります。

「絶対に予定調和をするな」

要するにわざと(実は大半が無意識に)的を外した攻撃をすることです。やられることを予定に入れた攻撃をするという意味です。私の見立てでは大甘に見て6割は無意識に先生や先輩に「やられること」を前提に予定調和攻撃をしています。厳しめに見ると8割は全然正確に突いていません。これは一番いけません。これは受も捕(技をかける側)も正しい間合いや見切りができなくなります。つまり稽古の時間全体が無駄になります。

ブルースリーも言っていましたが、格闘の要素は「速度、力、間合い、拍子、精度」です。そのうち稽古において相手がいないと絶対的に難しいのが3番目から全部です。速度と力に関しては私の経験では相手がいなくとも稽古は難しくありません(というより見せたくない場合もあります)。そのふたつは数値化できるほど客観的に分かりやすいものでもあるからです。しかしそれ以外の3つは相手がいないとどうにもうまく上達できないものだと考えています。

私のところに稽古に来た方であれば知っていると思いますが、突きであれば避けなかったら確実に命中するように指南しています。速度は落として教えます。それは精度を上げるためでもあります。なので私もすれすれに躱しているのでかすられることしばしばです。

私も先生の受をするときは全く遠慮しません。避けなかったらけがをする程度には攻撃します。スピードとパワーを使わないのは稽古は「二人だけの世界(笑)」ではなく、多数の門下生が観察しているからです。古参は彼らのために見やすいようにある程度気を配らなければならないと考えます。(大体速度を出したらもっと怖い場合もありますし)私の独断と偏見ですが、稽古の受において攻撃で非常識かそれに近い速度を出す人と自分勝手な人はほとんど正比例しています。

私的には受モードは幾つかあります。

1.指導を受けるモード

先生やうまい人から色々教えてもらうときです。技のかかる感触を毛穴の一つ一つで感じながら仰せつかります。最近はめっきり減ったのが少し哀しく感じられます。

2.私が稽古をするモード

大体同じ技量の同門と黙々とやる、本来の稽古。至福の時でもあります。

3.手ほどきをするモード

後輩や自分の門下に手ほどきする時です。これは時々自分の稽古になることもありますが、古参になってきた今は多いですね。

4.忍耐モード

段位はともかくうまくもないのに教えたがる人と稽古をしたとき。こういう人はまず眼と耳を持たない口だけの生き物だと思って黙々と何も言わずに稽古します。逆にこの種の手合いにもうまくかかればかなりのものだと言うことです。

受の役割というと、捕を助ける役で、捕こそ稽古の本来の姿と考えている人が多いように思います。

私は受は正しい攻撃ができたり、捕の動きの軌跡を感じられる有利な立場だと思っています。稽古時間の半分は受なので、有効に活用していきたいものです。

SD100925 碧洲齋