なんか最近、師事についてふと思う事があります。
出藍の誉れ、とか言われます。
師を超えるという意味ですね。
でも人は皆違います。
自分を完全に使い尽くせた人が強いのだと思います。
そういう意味で師事しない限りは、
決して師を超える事はできないと思います。
で、どの程度師事すればよいのか。
師が亡くなるまで。
自分が納得するまで。
人にもよりますし、状況にもよると思います。
正解はないように感じるのです。
技さえ学べばよいと思うのであればそんなに時間はかかりません。
哲学まで味わおうというのであれば果てがありません。
師は何の為なのだろうかとよく考えます。
一番納得がいくのはやはり「先生」という言葉。
たまたまその道で、ほんの少しだけ先を生きているだけの人です。
本当はライセンスとかを持っているわけではありません。
誰からか権威を授けられたわけでもありません。
その門をくぐったときに、
偶然先を歩いている人という以上ではありません。
ただ、背後から声を掛けるのです。
師には無礼がないようにしたいものです。
また、背後から慕っている人は自分だけではないかも知れません。
後ろ指を指されないようにしたいものです。
ちょっとかっこよく言えば、人を殺さねばならないその瞬間以外は、
道義的、倫理的に高潔でありたいと思います。
恥をさらすような品位の低い事はしないように済ませたいところです。
ちょっと理想が高すぎましたか。
師は師たろうとするものではなく、士たるべきなのかもしれませんね。
士たろうと精進している背中を見て自然と付いてくる、
これが本来あるべき師の姿なのかも知れません。
俄然、背中が「死」んでいる人には付いていきたくはないですね。
芸事を学ぶという事は結局、
自分を使い尽くす術を学びとる事ではないかと思うのです。
そのためには自分を知らなければなりません。
しかし実は禅的に言えばそれはナンセンスで、
自分であり潰す事ができるだけです。
自分自身を知る事なんかできません。
それはあたかも鏡なしで自分の顔を見る、とか、
鏡なくして自分の尻の穴を見る、とか、
そういう無駄に近い努力と禅ではされています。
私も結局、自分であり潰す為に精進しています。
私の場合ですが、自分であり潰すところに何かあるのかなと思っている次第です。
SD100809 碧洲齋