不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

白隠の兄弟子

私は今、非常に気になっている禅僧がいます。

白隠慧鶴禅師は臨済宗中興の祖として非常に良く知られた禅僧ですが、彼を穴蔵坊主から救い出した飯山にある正受庵の禅僧、道鏡慧端(正受老人)も白隠禅師の才能を見抜いた優れた禅僧として知られています。

私が気になっている禅僧は、2人を会わせた正受老人の愛弟子、雲水の宗格です。宗覚と書く場合もあるようです。一説によると彼は正受老人と同じく武家の出で、以前は飯山城にいたとのことです。身の丈6尺とありますから、当時の標準的な日本人の体格と比べると、まさにラオウ並の巨体の持ち主のようでした。彼がいつ出家したのか分かりませんが、27歳の時に正受庵から修行の旅に出ています。そして3年後、6歳年下の雲水慧鶴、後の白隠を連れて戻ってきました。白隠はそこで約8ヶ月間、徹底的にしごかれ、伸びすぎた増長漫の鼻をへし折られてやっと正しい禅を見つけました。正受老人は実は信州松代藩真田信之庶子です。元々は将来を有望視されていた侍でしたが、思うところあって参勤交代に随伴して江戸に赴いた際によい師を見つけ、出家しました。色々修行をした後にまた飯山に戻ってきましたが、彼の母君も剃髪したそうです。そしてしばらくは藩主が寄進した正受庵で暮らしました。もしかしたら藩主が正受老人の母亡き後に身の世話をさせるために藩士より出家を募ったのかも知れないし、正受老人のように出家を臨んでいた若い侍を許したのかも知れません。よく分かりません。

宗格に関心を持つ理由は、当時、曹洞宗黄檗宗に比べて低迷していた臨済宗にあって、高名でも有名でもなかった片田舎の庵を構える道鏡慧端を真の師と仰いだ辺り、ただ者ではないと思います。道鏡慧端、正受老人の位は低く、しかも住んでいるのは寺格すら有さない庵です。そんなところに住んでいる禅僧が凄い人だったなどと分かるには、それなりに優れた人格であったと思います。そして宗格は3年の修行の旅の後にまた戻ってきました。やはり色々な寺院に掛錫(しばらく寺に宿泊して修行すること)してみても、自分の師が一番優れていたと確信したようです。実は彼の師、正受老人も若い頃、至道無難老師より指南を受け、色々全国に修行に出たものの、やはり自分の師が一番だと悟り、戻ってきた経緯があります。

宗格と慧鶴が出合ったのは高田英巌寺でしたが、宗格が掛錫のために山門にやってくると、雲水は皆、宗格の巨体に驚いて誰も応対したがらなかったのですが、慧鶴だけは平然と対応したそうです。さてさて、宗格は慧鶴をどう見たのか。

高田英巌寺で慧鶴は非常に大きな悟りを得たとありますが、傍から見ていた宗格の眼には実に危うげなものに映ったのでしょう。年若いながらも慧鶴は当時、なかなかの秀才禅僧と見られていましたが、この点、宗格の慧眼は非常に優れたものです。

当時の慧鶴は若さ故、才能がある故に非常に角の立つところがありました。それを包み込んで飯山の正受庵まで連れてきた手腕は感嘆に価します。時々、慧鶴の行きすぎた言動に対してもやんわりとたしなめていたらしいですが、本当にそうだとしたら体躯に似合わず、非常に穏和な禅僧だったのかも知れません。

慧鶴が正受庵で苦しみもがいている間、きっと陰で支えたのだと思います。6歳も年上だったという理由もあるのでしょうし、自分が勧めたからかもしれませんが、ずいぶんと生意気だったと思われる慧鶴の心眼を開かせるためによく助けたと思います。

慧鶴が正受庵を出た後も正受老人に師事し、師が亡くなった後は正受庵の第2代としてそのまま住んでいました。彼の墓は今でも正受老人の横にあります。慧鶴はその後、厳しい修行や病を経て、当時の臨済宗を代表するような名声を得ました。片田舎でひっそりと坐っていた宗格はどう感じたのでしょうか。私は我が事のように喜んでいたと思います。ねたんだりうらやましがったりはしなかったような気がします。白隠禅師の物語などにはちょろっと出てくるだけの端役ですが、考えようによってはかなりの人物だと思います。彼の自我なき禅への想いが白隠禅師を育て、臨済宗を今に伝えられたのだと思います。

SD100617 碧洲齋