不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

100万回生きたねこ

先日、「100万回生きたねこ」という絵本を息子と読みました。

描かれたのは1977年。日本が日の出の勢いで隆盛し始めた頃です。

子供用として描かれたようですが、大人向けの絵本のような気がします。

絵以外の文はこちらのサイトに掲載されています。

文だけでも充分に泣けますので、ぜひご覧ください。

http://pendora.hp.infoseek.co.jp/neko.htm

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息子の感想

「この猫ってさあ、結局1回しか生きてなかったんだね」

「本当に生きる、本当に死ぬって大変だね」

私なんかよりもよほど、よく分かっているようです。

生と死をどうやって子供に教えるか、これはなかなかむずかしいところです。

しかし小さい子供は意外によくそれを理解するものです。

自分の息子を見てそのように思いました。

生の反対が死ではありません。

「それ」の一面が「生」であったり「死」であったり。

「それ」は仏でも空でも無でも、神でも何と呼んでもよいのですが、生とか死という現象は「そのもの」の一部分を切り取っているに過ぎないと思います。というより、人のアタマでは切り取って考えないと理解できないと言うことでしょうか。

その点、幼い子供は仏そのものです。心でそれを感じ取れるのでしょう。

師も子供の7歳までは敢えて何かいじる必要のない仏そのもの、と言っていました。

(数え年のことですから6歳でしょうか、ちょうど息子の歳です)

息子が時々発する感想は大人のそれを明らかに超絶しています。つくづく大人はどうしようもないアタマでコチコチに考えているなと痛感させられることしばしば。元々子供と遊ぶのは好きですが、最近は修行のためと、今度は邪心も入り込む始末です。

こういう豊かな時代です。ちょっとばかり贅沢ができなくなる、というだけで天と地がひっくり返ったような大騒ぎをする辺り、ほほえましくもあります。

人には必ず一つは付いていて、人生の局面で必ず使わねばならないカード「死」が遠ざけられ、最小限しか垣間見せない社会になっている気がします。昔は言うまでもなくもっとそれをよく観る機会がありました。

蛇足ですが、私の一族も長命がほとんどいないのと、親族友人は独身貴族が大多数なので、白いネクタイを着けた記憶がありません。割に死はよく観た気がします。

これから高齢化社会の大きな波がどんどん押し寄せてきます。今まで具体的に考えもしなかった現象を頻繁に見る機会が増えてくるでしょう。直面したその時に考えても全く構わないのですが、もう一歩進んで少しでも予習しておけば、日本人のものの考え方、子供への教育、人、生き物の存在意義など、パーソナルゲームやネットゲームの攻略テクニックとは少し色合いの違ったことを知ることができるかも知れませんね。

SD100527 碧洲齋