不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

殺生と不殺生のこと

殺生とは辞書によると「生き物を殺すこと」という解釈が付けられていますが、昨日の坐禅会ではなかなか面白い解釈を話していただけました。

「殺生」とは生き物を殺す、という意味ではないとのこと。

師が言うには「生き物だけでなくあらゆるモノを使い尽くさない、無駄にする行為」なのだそうです。

例えば娯楽の狩は殺生ですが、その昔に行われていた狩は捕まえた獲物は肉は言うまでもなく、内蔵なども食し、骨も道具として再利用し尽くすことは殺生ではないと言うことでした。道具も修理不能になるぐらいまで使い尽くすことは不殺生ではないということです。逆にちょっと使ってすぐに棄てるのは殺生なのだそうです。だから生き物であれ物であれ、その命を完全に使い尽くすことは、その命がこの世に生まれてきた意義を全うさせてやるのだそうです。

だから殺すとか殺さないが問題ではなく、その命が現世で使命を完全に果たせるか否か、もしくは果たさせてやるか否かということなのです。

そもそも一つの命が他の命を脅かさずに全うすることは不可能です。例えバクテリアや植物であっても命が単体で寿命を全うすることは難しいと思います。

禅宗では消滅した命は消滅させた命にちゃんと繁栄されているのかどうかを問うているらしいのです。そのため禅宗では質素倹約を旨とし、用いる物は使い尽くされるまで大切にされます。あらゆるものの命を全うさせてやるが為に塵一つ生ゴミ一つに至るまでよくよく吟味して再利用したり、丁寧に捨てたりするようです。今風に言えば生き物を含めてエコロジーということでしょうか。

しかもその上、日本では針やハサミ、人形、茶碗に至るまで、全国各地で供養の祈祷が良く行われています。昔の日本人の物や生き物に対する考え方に今更ながら感心させられます。豊かすぎる現代日本人にとって耳の痛い話しですね。

食べ物や物を大切にする。たったこれだけのことで他の命が輝き、使命を全うできるのであれば、人間としてこのぐらいは行いたいところですね。

SD100315 碧洲齋